万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

時をかける少女、視聴2回目

いや、2回目見終わりました。
最高だな。
まだ見ていない人は見るべきだ。それも繰り返し見るべきだ。
こんな青春映画、なかなか見られるものじゃないんだから。


忘れがたき日々、というのは誰でも持っていることと思う。まだ持っていないという若い人も、間違いなくこれから持つことになる。
でも、人の記憶は完璧じゃないし永遠でもない。
でも、あの日のことは忘れたくない。
いやきっと忘れるはずがない。
そんな強い意志を持った忘却の拒否と、思春期の日々というのが共鳴しあい、素晴らしい結果となって結実したのがこの作品なのだと思う。


以下、ネタバレしまくるので、まだ見ていないという方は見ないでくださいね。

見直してみると、また色々と芸が細かいなあと感心するんだ、これが。




伏線が細かいんですよ! とにかく!
序盤のシーンで、きちんと間宮千昭が、例の絵を見ているの!
しかも2度も!(本当に2度か? 見落としがあるかもしれない)
功介に思いを寄せる三人組も、きっちりと登場しているし。
序盤から執拗に繰り返される、主人公たちが登場しない日常風景の描写は、タイムリープした日時がいつなのか、観客に明示するために効果的に利用されていくし。


コミカルな味付けも楽しいし。
タイムリープする度になにかにぶつかって痛い目にあうといった描写だけでなく、タイムリープする度に真琴が望んだ人間関係の構図から遠ざかっていってしまう、プロットも面白い。


で、間宮千昭は、所在がこの時代でしか確認できない絵をわざわざ見るためにこの時代に来た、と言ってるわけで。
前作の主人公である「魔女おばさん」は、この絵が大戦争と飢饉の時代、世界が終わろうとしている中で書かれたと言っている。
そして間宮千昭が来た時代も、幸福な時代ではないことが示唆されているんだよな。
本人曰く「川が地面を流れているのを初めて見た」「人間がこんなにたくさんいるのを初めて見た」とかね。
大戦争と飢饉の時代から、大戦争と飢饉の時代に描かれた絵を見に来る、その心情は如何ばかりのものであろうか。


で、視点人物に注目して見てみたのよ。
途中、一箇所だけ真琴抜きの場面があるのね。真琴抜き、千昭と功介の二人でキャッチボールしている場面
そうすると、視点人物は実はタイムリープ能力を持つ二人、真琴と千昭だった! っていうのできれいにまとまるかなと思っていたら、終盤になって功介視点の場面(功介とガールフレンドの果穂ちゃんが二人で下校するシーン)が出てきて、ああ、これはうまくまとまらなかったな、と(笑)


で、この映画のテーマ(と、私が思ったもの)って、「忘却することの拒否」ではないかって思う。
アニメ化で人気再燃するも、失われたモノも大きい「時をかける少女」|忍之閻魔帳
他の人の感想が気になって、いくつかのサイトを拝見したんだけれど、上記のサイトで指摘されている原作・前作からの改変というのも、そこらへんに絡んでいるんじゃないか、というか、この指摘を読んだ後で2回目見直して、気がついたんだけれども(笑)。
絵を見るためだけに過去に来たのかと問う真琴に、見たら一生忘れないつもりだったと答える千昭。そう、忘れないのね。
で、真琴が千昭の告白をタイムリープの力でなかったことにする。そのことを猛烈に後悔するわけで。これも忘却させたことに対する後悔なんだよ。


さらにいうと、真琴の記憶について、プロットにちょっとした矛盾が生じているんだ。おそらくは計算済みで。
終盤、まさにクライマックスのシーン。
ブレーキが壊れた自転車に乗って踏み切りへ突っ込んでいこうとする功介と果穂ちゃんを救おうとして疾走する真琴。でも、直前につまらないことで(しかも千昭のちょっとした発言を「なかったこと」にするため。強制的に忘却させるために!)タイムリープできる回数を使い切ってしまった真琴には、ただ走ることしかできない。
冒頭で真琴が靴を飛ばしたように、飛ばされた功介の靴にぶつかってしまい、転倒する真琴。
傷だらけの真琴が絶叫する中で踏み切りに突っ込んでいく二人。
正に万事休す!
その窮地を救ったのは、実は未来人であった千昭。
最後のタイムリープ能力を使って、時間を戻し、真琴に真相を静かに語り始めるのであった……
実は、ここで真琴に功介と果穂ちゃんが踏み切りに突っ込む、それを見て自分が絶叫している、その記憶が残っているのはおかしいんだよな(笑)。
しかし、この記憶なしではこの後の展開は成立しない。
ここで記憶が残っていたからこそ、最後の別れのシーン。決定的な忘却の拒否。それどころか、とことんまで能動的なあの心に残る名台詞につながるわけで。
繰り返しになるけれども、忘却に対する強い拒否というのが、思春期の忘れがたい日々という舞台設定と共鳴し、この素晴らしい作品に結実したんだろうと思うよ。