万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

グラン・ヴァカンス/ラギッド・ガール/「廃園の天使」はガチの心理学SFであった!

積読というのは罪深いものだ。とりあえずの所有欲は満足させることができる。それ故に、このような傑作を積んだままにしておくという、実にもったいない現象が起きてしまう。我が家の積読の中にどれだけの小説が含まれ、どれだけの登場人物が本の中で凍り付いていることかと思うと、これはちょっとしたジェノサイドじゃないかなんていう気もしてくる。
何はともあれ、飛浩隆「グラン・ヴァカンス 廃園の天使Ⅰ」と「ラギッド・ガール 廃園の天使Ⅱ」をようやく読了したわけなのだ。
これから感想を書こうと思う。ネタバレするので未読の方は読まないで欲しい。
以下に続く文章が、傑作SFである「グラン・ヴァカンス」「ラギッド・ガール」への賛辞となっているといいのだけれど。


サーバー上に構築された仮想リゾート〈数値海岸〉におけるアトラクション(この作品では「区界」と呼ばれる。それぞれの区界は一部の例外を除いて、互いに独立しており、ある区界から別の区界へ干渉することはできない)のひとつである〈夏の区界〉の平凡な朝から「グラン・ヴァカンス」は始まる。
〈夏の区界〉は南欧の港町をモチーフに形作られている。ひなびた建物。万物に降り注ぐ漂白されたような陽光。海。砂浜。暑さと清涼さ。
リゾートである以上、人間がゲストとして区界を訪れるのが通常である。というか、そのための仮想リゾートなのだが、ある日突然ゲストたちは姿を消し(この出来事は〈大途絶〉(グランド・ダウン)と呼ばれる)、それでもAIたちはそれぞれの区界で生き続けていた。
そして、訪問者のないまま、1000年。
何の前触れもなく〈夏の区界〉が侵略される様を描ききったのが第1作の「グラン・ヴァカンス」であった。
「ラギッド・ガール」は、それを補完するような短編集である。とはいえ、添え物というわけではない。まだシリーズは完結していないわけだが、シリーズの鍵を握る力作ばかりが収録されている。


見出しで「SF」という風にどーんと書いてしまったが、それ以前に読み物として、物語として非常に優れている。
「グラン・ヴァカンス」をどんな言葉で絶賛しようか、私の最近劣化の激しい脳で考えたところ、様々な単語が浮かんできた。
例えば「残酷さ」、例えば「妖艶さ」、「爽やかさ」「切なさ」「痛々しさ」「非常に幻想的な情景」「手に汗を握る展開」「グロテスクな描写」「淡い分、純粋な恋慕」「漂う詩情」。
ほら、別にSFに特化したものは見当たらない。
もちろん「グラン・ヴァカンス」は道具立てを見たらSFであるし、その道具立てを活かして魅力あふれる小説に仕立てているわけだから、傑作SF小説であることには間違いない。
ただ一見、SFであることを前面に押し出した小説ではないと思えるのだ。残酷なボーイ・ミーツ・ガールであり、鮮烈なまでの世界の・人格の解体であり、文字通り真夏の世の夢である(この区界には夏しか存在しないのだから)。
ところが、である。




ところが、「ラギッド・ガール」で、正確に書くと二番目に収録されている表題作「ラギッド・ガール」で様相は一変する。
この〈数値海岸〉開発秘話を書いた作品、もうこれ以上ないくらいにSFなのだ。それも科学的要素を取り去ったら作品の魅力そのものが失せてしまう、科学が他の何かでは代替不可能なほど重要な、いわばハードSFなのである。


「ラギッド・ガール」では、二つの実在の専門用語、「感受個性」と「表出個性」というのが出てくる。これにもうひとつ、オリジナルの用語である「代謝個性」が加わる。
私たちが外界をどのように認識するのかが「感受個性」、それに対する反応をどのように表すかが「表出個性」。感受個性のデータを表出個性のデータに変換する役割が「代謝個性」という風にまとめてよいと思う。


さらに「情報的似姿」という道具立てが加わる。これについては後述。


さらに思い出してみると、「グラン・ヴァカンス」でも、人間以上に人間らしい振る舞いを見せるAIが、いくつものモジュールプログラムで構成されているという描写がある。
人間の心理(脳でもかまわないが)も、モジュールを構成すると考えられていたりする。


さらに、次の短編「クローゼット」では、すべてのAIがアクセスする、言い換えると全AIに共通の心理的基盤が示される。
私自身はユングって全然信用していないんだけれども、ユング集合的無意識を連想してしまうところだ。


鍵は「人間心理のモデル化」である。
心理学においては心理の有り様を説明するために、様々なモデルが提案されてきた。これからも提案されていくだろう*1
作者は、このシリーズにおいて心理モデルのAIへの適用というのを、徹底して実行しているのだ。
心理のモジュール的構成しかり、集合的無意識しかり、
情報的似姿しかり。


さて、「情報的似姿」について後述すると書いた。
この情報的似姿というのは、仮想リゾートを人間が訪問するために開発された技術である。
開発者は、人間を何から何までコンピュータ上でシミュレートするのは不可能に近いと考えた。シナプスの連結やら、脳内物質の濃度やら、無理無理。
しかしだ、「感受個性」「代謝個性」「表出個性」さえきちんとシミュレートしてやれば、それで足りるのではないか?
で、その3つの個性をシミュレートしたものが情報的似姿だ。実際の顧客とは独立したもの。もう一人の自分がサーバー上に形作られるわけだ。そして後から、顧客は似姿の体験を自らへダウンロードして楽しむ。


このへん、実際のメカニズムはとりあえず置いておき、表に出てくるものを分析、再現していくという手法は、心理学と実に相性が良い。
というか、人間の心理を研究する際に実際の反応・行動のみを対象とするというのは、心理学が編み出した手法なのだ*2
もちろん、じゃあ実際に情報的似姿を作ってみて、それが人間と同じように感じるのか、本シリーズで書かれる様に心を持つのか、それはわからない。
しかし、それを逆手に取って、「じゃあ、そういったものも心を持つとしたら?」というIFを設定したのが、本シリーズである*3
科学的な問題を中心に据えた上で、そこに「もしこうだったら?」という仮定を持ち込んで物語を展開させていく。まさにSFが発展させてきた手法に他ならない。
言い方を代えると、これこそまさにSFがSFたる所以なのである*4


で、あるから、〈廃園の天使〉は実に優れたSFである。
当然ながら、SFであるからといって、SF以外のものではないということにはならない。文芸におけるジャンルは何も排他的なものではないし、それはこの作品を読めばわかることであるし。
それでも、自分が優れたSFだと感じたものを、優れたSFであるといえるというのは、実にファン冥利に尽きる。
願わくば、この文章が〈廃園の天使〉への賛辞として読める代物になっていますように。

*1:神経科学の発展はそのモデルを検証することができる手段ができたということで、なんというか、すごいことだ。それでも、モデルは提案・修正され続けるだろうし、支持・否定され続けるだろう。モデルの提案者が心理学者ではなくなるということはあるだろうが、些細なことだ

*2:行動主義

*3:更に「シミュレーションが再現されるのはコンピューター上じゃなくてもいいのでは?」という、とてつもなくラディカルなところまで行ってしまう。凄いの一言。

*4:そうでなければSFではない、というわけではないことにくれぐれも注意されたし。ロボットや宇宙船がでてくればSFだというのも、同じくらい強固な判断基準である。どちらもSFというジャンルが育んできたものだ