しかし、さっぱりわけがわからないままなのであった! わはははは!
本書は万人が楽しめる類の本ではない。だからこそ、万人にオススメしたい。
ここ最近の日本SFで「10年に一度の傑作」といったら飛浩隆の「グラン・ヴァカンス」であり「ラギッド・ガール」であるかもしれない。
しかし「10年に一度の問題作」は間違いなく「Self-Reference ENGINE」であるだろう*1。
勢い余って、感想のリンク集を作ってしまった。さらに、その様々な方が書いた感想の中でどのような作家・作品が引き合いに出されているかもまとめてしまった。
やはりというか、みんな困惑したり興奮したり首をひねったりしている。つまり、結構みんな、わけがわからないのだ。
本書の場合、ストーリーをまとめることにさほど意味は無い。というか、ストーリーをまとめること、それ自体が読書の大きな楽しみとなりうる類の本だ。「ストーリーのここが面白い」ではなく「ストーリーをつかむことが面白い」という本。
そのために、著者は様々なヒントやエピソードや種明かしをして見せてくれているのだが、困ったことに、どう考えてもストーリーを組み立てるにはパーツの数が大幅に足りていないのである。
しかも、パーツの数が足りていないことすら、読者に明かされている。質の悪いことに「こんなパーツが足りていないかもよ?」といったヒントまで与えられる。
さらに、それぞれのパーツやヒントというのが、ひねくれたユーモアや感傷を湛えていたりする。パーツだけ見ていても充分に楽しいのだ。そういう楽しみ方もありだろう。
でも、それだけだったら再読したりしないよ! 私はそのいかにも面白そうなストーリーをもう一度組み立てなおしてみようと思ったんだ。
それが成功したとは言いがたいのは、冒頭で「さっぱりわけわからんまま」と告白したとおり。こんな知恵の輪、解けるものか!
しかしおそらく、作者は解いているのだ。
これはメタフィクションであるともいえるのか? そりゃ言えるだろう。
私の中でのメタフィクションの定義というのは、非常に単純なもので(なにせ単純な人間なもんで)つまり「メタフィクションとはフィクションであることを逆手にとって遊んでしまうフィクションである」というものだ。
ならば、本書はメタフィクションと呼ぶにふさわしい。読者に「提示されるストーリーを追う」という読み方ではなく「提示されるパーツでストーリーを組み立てる」という読み方を、読み方の能動的な変換を迫るからだ。
こう喩えることもできる。本書は大長編の名場面集。言ってみればすごく面白そうな映画の予告編に相当するのだ、と。
ところが、予告編だけで1時間もある。
普通だったら一時間も予告編を見せられたら嫌になりそうなものだ。にもかかわらず、映画はとても面白そうなのだよ。
それなのに、肝心の映画のフィルムはすべて焼けてしまった!
そして監督にこういわれるんだよ。「さあ、どうする?」*2
何はともあれ、一読を強烈にオススメする。
いや、二読くらいは是非。