万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

決断主義と逃走主義のサンバ

色々と話題になったSFマガジンの連載「ゼロ年代の想像力」を読んでいて、この枠組みだと「逃走」というものが捉えやすいのではないかな、などと思った。


ゼロ年代の想像力」に倣って、話をエヴァンゲリオンから始めてみよう。
あの作品で、裸の女たちがなんども「逃げていいのよ」と繰り返していたことを覚えてらっしゃるか? 何話だったか忘れたけれども。
そうか、追い詰められたのならば逃げるのもありか。
でも、どこへ?


この「どこへ逃げたらいいのか?」という問題に対して、エヴァンゲリオンは回答を提示しなかった。
シンジ不在の戦場を背景にして、スイカ畑で加地とシンジが語り合う場面を覚えてらっしゃるか?
あれこそ、「どこへ逃げても状況は変わらないんだ」という認識を示した、言い換えると逃走を否定した場面だった。


いわゆる「バトルロワイヤル」においても、この「どこへ逃げても状況は変わらないんだ」という認識は、もしかしたら変わらないんじゃなかろうか?
宇野氏のいう「バトルロワイヤル」系作品とは、枠組みの中での戦いや、枠組みそのものの破壊を志向した作品を指すとも言えないだろうか。


それならば、まだ「逃走」という選択肢は残っていることになる。「どこへ逃げても状況は変わらない」って、本当かよ、それ。


「ここではないどこかへ」逃げるのではなく、はっきりと「ここへ逃げるんだ!」という目的を持った、主体的な逃走というのが、現代において有効な手段だと認識されているのではないかとなんとなく考えているのだけれども(参照:万来堂日記2nd - 橋本紡を読んだ)、これを言い換えるとこんな感じになる。
すなわち、エヴァンゲリオンにおける逃走の失敗を踏まえた全員が、戦うことを、闘争を志向したわけではなかった。
「どこへ逃げたら良いんだ?」の「どこ」の部分を追求する、そのような流れがあったのではないか、ということ。


もちろん、この逃走というのは、別段、宇野氏の言う「決断主義」と相反するものではない。
むしろ、主体的に逃走を選択するという点で、決断主義の中に納まるということができる。