万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

「神は妄想である」を絶賛できないのはなぜだ?



あのリチャード・ドーキンスが宗教(厳密には一神教)をけちょんけちょんにけなして全否定してみせた話題の本をようやく読了。
切れ味は鋭く、また、これが現代社会に出るべくしてでた本だというのもわかる(また、その意味で意義深いというのもわかる)のだが、絶賛する気になれないのはなぜだろうか?


なんだかねー、ダブルスタンダードを許すことが出来ないことの弊害が噴出しているような気がしてならない。
いやね、この人ら、互いに矛盾する体系を同時に受け入れることが出来ないのは、なぜなんだろう?


私、へんなこと言ってるかね?
そりゃまあ、理屈で言えば互いに矛盾する体系を同時に受け入れるなんて出来ないんだろうけどさ、それでも、古来から多くの人たちがそれを涼しい顔してやってきたわけで。
色んな宗教が共存するコスモポリタンな都市って、昔から繁栄してたわけでしょ?
なんかね、頑迷な宗教に対抗するべく徹底的な(頑迷な、と言い換えてもいい)無神論もちだしちゃってるせいでさ、宗教的に無節操であるというあり方が本書では無視されてしまっているような気がしてならないのよ。
本書の理想が結実したとして、その行き着く先というのは「無神論が宗教を駆逐した世界」に思えてしまうわけで。それって、宗教同士の縄張り争いとどう違うの? と。


思いつく反論としては「無神論というのは、幼い頃からそれを刷り込まれる宗教とは異なって、ある個人が様々な証拠や思想に基づいて、主体的に選択したものだろう。だから宗教と無神論は決定的に異なるんだ」というのがあるんだけどさ。
ある宗教を信じていた人が無神論者に転向するんだったら確かにそうだろうと思うんだけど、無神論が支配的になった社会では、無神論そのものが宗教化してしまうんではなかろうか。
宗教というのが進化的な産物(もしくは副産物)として生じた可能性というのは、本書の中でドーキンスも触れている通り。
だとしたら、宗教は放っておくと生じてしまうものだともいえる。それならば、無神論が新たな「宗教」の座に収まることはないという見方はナイーブに過ぎると思うわけで。神を信じるですって! 嗚呼、なんていうことでしょう! ダーウィンよ、この子をお救いください、なんてな(笑)


既存の宗教を戴くよりは無神論を戴いたほうが害が少ないじゃないかという考えもあると思うんだけど、まさに本書の「ヒトラースターリンについてはどうなのか? 彼らは無神論者ではなかったのか?」という章で、それは逆に反論されてしまっている。「ヒトラースターリン無神論者じゃなかったのか?」という無神論者批判への反論なんだけどさ。この二人の歴史的に褒められたものじゃない行為は、別段「無神論の名において」なされたわけじゃない。二人が無神論者であることと、その行為は関係が無いということなんだけど。
じゃあ、宗教の名においてなされる行為(十字軍とか自爆テロとかさ)と、別に無神論の名においてじゃなく無神論者がなす行為(旧ソ連での「粛清」とかさ*1)と、どちらが社会的に許容できるかというと、どっちもどっちでしょう?


宗教の弊害を説くのは結構だけどさ、その代案である無神論がいささか頑迷に過ぎて、ちっとも魅力的に思えないんだよなぁ。
やっぱり、ダブルスタンダードの出番だと思うんだけどねぇ。

*1:ここでヒトラーホロコーストを挙げないのは、ヒトラー無神論者であるかどうかについてはドーキンス自身が判断を保留しているから。