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万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

海燕さんへお返事申し上げます。/落合と亀田とSFと初音ミクと人気と実力について

スポーツ SF 音楽 書籍

まずは事情説明から。

海燕さんがご自分のブログでこのようなエントリを書かれました。

落合、亀田、初音ミク。 - Something Orange

私はそのエントリをブックマークし、このようなブックマークコメントを残しました。

未だに「SFは冬の時代」という認識だとしたら、さすがに少々古い。初音ミクをPOPカルチャーだというのは、「SP-1200こそHIPHOPカルチャーだ」というようなもの。落合と亀田は完全に蛇足。海燕氏、どうした?

そうしましたら、海燕さんに下記のエントリにてお返事をしていただきました。ありがとうございます。

落合はハードボイルド。 - Something Orange


で、このエントリはさらにそれに対するお返事というわけであります。

まずは、私のブックマークコメントがどういう指摘であったか(少なくとも、私はどういうつもりであったか)、改めて書いてみるところからはじめようと思います。正直、100字ギリギリだったもので、ニュアンスがきちんと伝えられなかったかなと思うところがあります。横着せずに最初からブログで書けばよかった。失敗でした。


最初に申し上げたいのは、海燕さんの主張している内容、大衆的な人気とマニアにも通用する実力の兼ね合いが大事なのだということについては、特に反論するつもりは無いということです。一般論としては、実にその通りだと思います。
「そんなに珍奇なことをいっているつもりもないけれど」と書かれていますが、私もこの点に関しては、海燕さんが別段珍奇なことを仰っているとは思っていません。
ただ、その例として挙げられている4つの例、今回の日本シリーズ、先日のボクシング世界戦での亀田騒動、日本におけるSF、初音ミク、それぞれが例示としては相応しくないんじゃないか、ちょっとずれているんではなかろうか。私がコメントで指摘したかったのは、そういった事柄でありました。あー、だったら「それって例示が相応しくないんじゃない?」とだけ書けばよかったのか。申し訳ありません。


お返事をいただいているのはSFに関してですので、SFについて。
お返事を読んで思ったのですが、SFの現状については、私と海燕さんの間にそれほど大きな隔たりは無いようです。ただ、それの受け止め方が違うようで。
SFを病人にたとえますと、私はSFが一命はとりとめ、順調に回復していると見ています。海燕さんは、まだまだ回復というには遠いと見ている印象を受けました。
昔話をしましょう。海燕さんも言及してらっしゃったことがありましたので良くご存知かと思いますが、90年代半ばにSFクズ論争というのがありましたね。実に不毛な論争でしたが、まあそれはさておき。
あの論争の時に論点となったのが、まさに今回海燕さんが主張された二つの要素、「大衆的人気」と「作品としての質」の関係だったと、私は捉えています。
まず高橋良平と鏡明が本の雑誌上で「なんでSFはこんなに売れなくなったんだろう?」と大衆的人気を問題にし、その言い方と煽り文句「ここ10年のSFはクズだ!」があまりといえばあまりだったせいで巽孝之とか小谷真理とかから「なにいってんだ! 相変わらず質の高い作品が発表されているじゃないか! クズなんかじゃないよ!」という作品としての質を問題とした反論がなされ、そこに大衆的人気至上主義を掲げて梅原克文が乱入し、まったく議論がかみ合わないまま巽孝之野阿梓あたりが勝手に勝利宣言して終わったという、実に散々なものでした。
あの論争に関わった論者は等しく恥じ入るべきだと思いますがそれもまたさておき、私はその当時と今ではかなり状況が変わったことをかなりポジティブに捉えています。読者の側も出版社の側も、ようやくライトノベルが多彩な収穫を産み出している事に目を向けましたし、そこから輩出された才能を取り込む試みとしての性格を持つJコレクションやリアルフィクションといった叢書も生まれました。
徳間書店がはじめた日本SF新人賞は少々存在感が薄いきらいがありましたが、今年「ジャン=ジャックの自意識の場合」を受賞作とし、存在をちょっぴりアピールしました。
小松左京賞もありますが、その落選作「Self-Reference Engine」「虐殺器官」がJコレクションから刊行され読者から高く評価されることで、レーベルを超えた新人発掘の動きが顕在化しました。
天変地異の前触れか、円城塔芥川賞候補にまでなってしまいました。
数年前の話になりますがハルキ文庫がSF第1世代〜第2世代の作家達の作品を意欲的に復刊したなんてこともありました。
また、現在進行形で創元SF文庫が過去の日本SFの名作の復刊を意欲的に進めています。
河出書房が、痒いところに手が届く奇想コレクション叢書を展開し始め現在も継続中ですし、刊行ペースは神のみぞ知る、国書刊行会は未来の文学叢書とレム・コレクションという二つのプロジェクトを展開中です。
確かにベストセラーといえるものまではまだ生み出していません(というか、小松左京筒井康隆相手では、全ジャンル含めてもそうそう対抗できる作家はいないと思いますが)。が、冬の時代といわれた90年代、ここまで活発な動きが展開されるとは予想すら出来なかったというのが、偽らざる実感ではないでしょうか?
つまり、私は「一時期衰退していたSFは活況を取り戻しつつある」という認識でおりますので、質が良いけど売れていないことだけに言及し、また活況が将来の売上改善につながる可能性には言及していない海燕さんの表現が、未だに冬の時代の認識から抜け出していないように感じられました。質と売上のバランスを回復しつつある分野を、質と売上のバランスを欠いている例としてあげるのは適切ではないのではないかと考えた次第です。



次に初音ミクについてです。
申し訳ありませんがポップな商品とポップカルチャーを同一視する視点には問題があるのではないかと考えます。特にそれが初音ミクのように、それを用いて何かを作り上げるツールである場合には。
ブックマークコメントで、私はサンプラーの名器であるSP-1200とHIPHOPカルチャーの関係性を例としてあげました。
言うまでもなく、HIPHOPにおいてサンプリングというのは非常に重要な、大きな革新でした。ロックにエレキギターが導入されたのと同じくらい大きな革新でした*1。SP-1200に代表されるような名器はとんでもない影響をHIPHOPカルチャーに与えたことは確かです。
しかしながら、サンプラーは使わなければただの箱です。使う人がちょっとした遊び感覚なら、楽しい箱です。たくさんの人がその箱を楽しんでいるとしても、それが何か従来のものより新しいと思えるようななにかを生み出さない限り、それはまだポップカルチャーと呼ぶべきではないと思うのです。
今のところ、初音ミクを使った作品では従来からある曲をカバーしたり、従来からある○○風のオリジナル曲を歌わせたりといったものが主流かと思います。「大衆的人気」と「質の高さ」ということでいいますと、デビューしたてのミクさんは大人気ですがまだキャリア不足で、まだミュージシャンとして一本立ちしていないのです。この間は失踪までしたそうですし。男性がらみらしいって本当ですか?(笑)
今のところ、人気先行のきらいがある初音ミクを質と売上のバランスを語る文章で例示し賞賛するのは適切ではないのではないかと考えた次第です。
ただし、将来的な可能性も含めての例示、賞賛でしたら、大いに同意いたします。将来的に、現在初音ミクで本気になって遊んでいるユーザーの中から、女性ボーカルの代用としてではない初音ミクによる革新的な音楽が生み出される可能性を考えると、私も胸が躍ります。
電子楽器の発達がテクノを生み出し、ブレイクビーツというローテクな手法の発見がHIPHOPを生み出したように、キュートなボーカロイドが新たなカルチャーの礎となることを願ってやみません。しかし、独創的な楽器であるムーグやハモンドオルガンが、音楽文化に多大な貢献をしながらもひとつのPOPカルチャーを形成するまでにはいたらなかったように、初音ミクもポップカルチャーにまではなれない可能性だって大きいのですから。


あとは亀田騒動と落合なんですが、その前になぜブックマークコメントで落合と亀田は蛇足と書いたのかご説明します。
なぜかというと、この二つの話題は、ライトノベル、SF、初音ミクへの話題へと持っていくための枕のように読めたからです。
これに関しては、私が誤読している可能性が大いにあります。申し訳ないです。


さて亀田騒動についてなのですが、海燕さんの文章では大衆は「スポーツ」よりも「ドラマ」を求める人たちとして定義されているかと思います。
亀田騒動で寄せられた批判というのは、ボクシングをスポーツとして捉えた視点からの批判です。たとえ実力で劣っていても正々堂々と戦い、試合後に相手を称える言葉でも言っておけばこんな騒動にはならなかったことは容易に想像できます。スポーツとしての枠を踏み出したからこそ、批判が寄せられたのです。グラップラーじゃねえんだから、と。
しかし、亀田選手を批判したのは誰だったでしょうか。もちろん、「スポーツ」であることに重きを置く熱心なファンも批判の声を寄せたに違いありません。でも、実際には「スポーツ」よりも「ドラマ」をありがたがるはずの大衆が批判の声を寄せたからこそ、騒動はあそこまで大きくなったのです。ねじれています。やはり、例示としては相応しくないように思えてなりません。
亀田騒動については、質・実力と人気のバランスとは別の視点で取り上げるべきではないかと思います。


最後に、日本シリーズの件です。
野球には詳しくないと公言されている海燕さんにこういった認識はあまり無いかもしれませんが、日本プロ野球というのは、まさに大衆的な人気を優先させるビジネスモデルを構築した結果、勢いを失いつつある分野なのです。
日本テレビを筆頭に、日本のプロ野球界は巨人戦を全国ネットでガンガン流し、大衆的な人気を獲得し、放送権料を大きな収入源とするというビジネスモデルで発展してきました。それが様々な理由から*2行き詰まりを迎えつつあります。象徴的な出来事が巨人戦の視聴率低迷、放映時間短縮だったりするんですが。
余談ではありますが

今回の日本シリーズ、平均視聴率は12・7%と低迷したそうです。このままいけば野球はいままでのような人気を維持することは出来ないでしょう。「想像力がない」層を無視する余裕はないはず。

と仰っていますが、視聴率が低迷するのは当然です。今シーズン通じてそもそも視聴率が悪かった上に、北海道が本拠地のファイターズと名古屋が地元のドラゴンズが戦うというのだから、全国ネットでは相変わらず巨人戦しか流していない*3、しかもそれも数字が取れていない状況下で、数字が取れるわけが無いのです。「想像力が無い」層を重視した結果、「想像力が無い」層を「想像力を備えた」層へと取り込む努力を怠った結果、現状があるといえるかもしれません*4

さて、必ずしも足並みがそろっているとはいえませんが、大衆迎合ではなく地元密着の戦略というのが、昔よりはずっと目立っているように思えます*5。福岡にフランチャイズを移すことで、Bクラスの常連から常勝軍団に生まれ変わったホークス。ガラガラの川崎球場から千葉にうつることで徐々に変革を遂げたマリーンズ。今までフランチャイズ球団が存在しなかった北日本に活路を求めたファイターズとイーグルス(やはり、財政的に楽ではない=プロ野球のビジネスモデルの行き詰まりの影響を顕著に受けるパ・リーグの球団が目立ちますね)。また、近鉄バファローズがなくなってしまうとき、選手会が熱心なファンの声を代弁する形で活動を展開したのは記憶に強烈に残っています。
大きな流れとしては、全国的な薄い関心を得る方向から、地元のファンを重視し、コアなファンを増やしていく方向へと、緩やかに変革しつつあるのです。日本のプロ野球が滅びるとしたら、むしろ変革が成し遂げられなかった時でしょう。
今回の落合監督の采配について、見方を変えると、シーズン通して自分たちをバックアップしてくれたファンたちを最大限尊重する采配であったと見ることも出来ます。中日ファンは残念には思っていても監督への批判はあまり出てきていないというのが各所で指摘されていますが、それはまさにこの采配がファンサービスとして確実に機能したことを裏付けます。つまり、日本シリーズにだけチャンネルを合わせた刹那的なファンではなく、ずっと支えてくれるファンを重視したと捉えることが出来るのです。
つまり、今の日本のプロ野球は「大衆的人気」を重視しすぎてきたことで「実力」とのバランスを取ることに失敗し、「実力」志向、「スポーツ」志向へと変革しつつある分野なのです。やはり、「人気と実力はバランスが重要であるから、もっと人気を重視するべきだ」という例としてあげるには、あまりにも適切ではないと考えます。


言いたいことは以上です。これで、私のブックマークコメントが一般論としての海燕さんの主張を批判するものではなく、その主張を展開するために挙げた例示が相応しくないものであったことを指摘するものであったとご理解いただけると幸いです。
長々とお目汚し失礼いたしました。もちろん、この文章へのお返事は結構ですので。

*1:ごめんなさい。ロックに関しては結構適当。

*2:色々あります。人気の一極集中による弊害や、他の人気スポーツの隆盛、金の比重がすごく高まったり、ファン軽視の姿勢がクローズアップされたり、他にも色々

*3:やったとしても、たまにNHKが流してくれる程度。フランチャイズの無い地方なんかそんなものです

*4:想像力という表現は危険な香りがしますが、引用元の表現に合わせます。

*5:一度は野球のようなビジネスモデルに引き込まれかけましたが、それを拒否し、それでも隆盛を誇っているサッカーの例も、いくばくかの影響を与えているのでしょう