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万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

あなたもこの2冊で存分にSFを語ろう! /齟齬は雄弁に語る/「ディック」を「フィル」と呼ぶ権利を与えてやる。

書籍 SF

SF小説を語るのに全てのSF小説を読む必要はあるか? - ハックルベリーに会いに行く
引用しよう。

だから、もし本当にSF小説を語りたいなら、読むのは一冊(多くて二冊)で良い。但し、それは重要な作品である必要がある。そして、それが重要な作品なのだということを、しっかり感じながら読む必要がある。それさえできれば、あなたは自信を持って、SF小説について語ることができるだろう。


さて、PCの前でご覧の「きゃあ! 私もSF小説を語りたいわ!」というそこのあなた!
そんなあなたに自信を持ってお勧めするのがこの2冊です!

新・SFハンドブック (ハヤカワ文庫SF)

新・SFハンドブック (ハヤカワ文庫SF)


こちらを読んで海外SFについて存分に語り

日本SF全集・総解説

日本SF全集・総解説


またこちらを読んで国内のSFについて存分に語ろう!
ちょっと照れた風を装って「いや、最近の作品は詳しくないんだけど……」とか予防線を張っておけばなお完璧!



……などという冗談はさておき。
18日付のエントリに26日になった今頃反応するという行為もさておき(だって、最近真面目にブクマチェックしてなかったんだもん。ちぇっ)。
これは「SFについて語る」という時、実際にはどのくらいの範囲まで語ろうとしてるのか、というお話だと思う(まあ、ことはSFに限った話でもないのだろうけど)。
「私にとってのSFの魅力」「私にとってのSFのイメージ」を語るには、1冊か2冊読めば十分可能。
実際、そういった範囲での「語り」というのも、ごく一般的に見られる。
ただ、それだとなんというか、せっかくの未開拓分野とのランデブーが不幸な結果に終わる可能性ってのもたかくなる。
SFからはずれるけれど、今でも時たま見受けられる「日本語とラップは合わない」とか「HIPHOPっていうと『YO!』とかいう奴でしょ」なんていうのはその最たるもの。
せっかくならいい出合い方をした方がお互いに幸せなわけで。だからこそ

但し、それは重要な作品である必要がある。そして、それが重要な作品なのだということを、しっかり感じながら読む必要がある。

という留保がなされているんだろう。せっかくならいい作品に出会って、いい読み方をしなさいよ、と。
実際、リンク先の他の記事を読んでみると、マーク・トゥエインの「ハックルベリー・フィン」一本に絞った「語り」が実践されている。うん、有言実行済み。まだ少ししか読んでいないけれど、既にちょっと「ハックルベリー・フィン」が読みたくなってきていたり。



ただ悲しいかな、「SF小説を語る」というのを「あるSF小説について存分に語る」のではなく「SF小説のシーンを概観する」のだと捉えると話は全く違ってくる。そして、SFファン、ひいては一昔前の「オタク」と呼ばれた人々(まあ、他人事じゃないんだが)は、なにかにつけ「語る」と聞くと「ああ、『シーンを概観する』ことを含むのだな」と半ば自動的に認識してしまう。昔は素直な子だったのに。
SF小説なんて狭い村に過ぎないが、それでも村中くまなく歩こうとかすればかなりの労力を要する上に途中で疲れて嫌になる。言い方を換えると、さすがに1冊や2冊ではカバーしきれない多様性をSFというジャンルは備えている。
冒頭に挙げた記事のブックマークコメントを読むと、「何かについて語る」という時に想定する範囲の齟齬が表面化しているようでちょっと面白かった。だもんで、こんな駄文を書いてみた次第。
もっとも

それは、その数少ない「読む必要のある」作品のうちに、マンガというジャンルのほとんど全てが凝縮されているからだった。それはフラクタルの図形のようなものだった。すぐれた作品というのは、それを読んだだけで、それを含んだジャンルの全体像さえも教えてくれるのだった。

なんていう文章が書いてあれば、そりゃ「あ、こりゃシーンを概観することについてだな」と思っても仕方がないとも思うんだけど。本当に良質の1〜2作読めば、そのジャンルを語るには事足りるってのはなあ。どんだけ多様性が乏しいジャンルなんだよ。



思いついたことがあるのでついでに書いておこう。
シーンについて語るのではなく、ある特定の作品について語るときも、その作品が属するジャンルの知識を備えていた方がより面白い語り方ができるのではないか、という風に話を進めることもできるかと思うんだけれど(そしてこれは「SF? まずは1000冊読んでこい。話はそれからだ」という立場を正当化する理屈でもある)、これって、よくよく考えてみるとバックボーンとなる知識を「その作品が属するジャンル」に限定する必要ってのがない。もっと一般化して「色んな知識があった方が(或いは…あまり好きな言い方じゃないけども…「教養」豊かな方が)、物事について面白い見方ができるんじゃないの?」と言った方が妥当なような気がする。
SFで例を挙げると、そうさな、例えば私はフィリップ・K・ディックが結構好きで、夢といったら一富士二鷹三電気羊なわけだ。
で、SF小説もある程度読んでいるからディック作品と他のSF作品を関連付けたりして語ることはできると思う。
ところが、ディックというのは主流文学志向があったことも知られている作家さんなんだな。そこでディック作品と、他の主流文学作品を関連付けて語るといかにもおもしろくなりそうな予感がするのだけれど、いかんせん、SFばーっかし読んできた私にはとてもそんなことなど出来はしないわけで。ああ、もっと非SFも読んでおけばよかったのに! みたいなね。
つまるところ、書評というものがなんで時に面白かったりするかというと、ある作品を読む際にその人が備えているバックボーンというものが千差万別であって、自分では思いもつかなかった見方が出てくるからってのは否定できない。だから「SF? おい、気安く『ディック』なんて呼ぶんじゃない。まずは1000冊読め。そしたら俺みたいに『フィル』と呼ぶ権利を与えてやる」*1的な言説というのは、そのバックボーンとなる知識を平均化してしまう危険性をもはらんでいる。そう考えると、あまり褒められたもんでもないんだよなぁ。

*1:元ネタは別冊宝島