万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

勝手にSFだけでハヤカワ文庫100冊 その11 スリランカから日本を眺めて(76〜79)

この一連のエントリでハヤカワ文庫JAの作品群をどう取り上げたものか、いやあ、悩ましいものがある。
無視できないカタログがそろっているものの、年代別に取り上げるようなアプローチを取るには欠落が多すぎるし、クラシックとも言える作品については他の出版社から復刊していたりするし。あと、驚くべきことに「マルドゥック・スクランブル」未読だったりするしな(笑)。年代的に系統だった紹介をしていくのは私の読書量では到底無理だけれど、せめて何年に発表(もしくは刊行)されたかは書いていこうと思う。
まとまりを欠いた紹介の仕方になってしまうと思いますが、ひとつご容赦のほどを。


76・「時砂の王」小川一水(2007年)
77・「老ヴォールの惑星」小川一水(2005年)
78・「沈黙のフライバイ」野尻抱介(2007年)
79・〈航空宇宙軍史〉谷甲州(1983年〜継続中)

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ハードSFというくくりだったら林譲治の「ウロボロスの波動」や、藤崎信吾の「ハイドゥナン」あたりも取り上げるべきなんだけれども、いや、申し訳ない。未読なのです。


さて、上記に挙げた作品群。いずれもハードSF。それもいわばクラークの嫡子達、なのである。
クラークという作家、イメージとしてはエンジニア的・工学的なハードSFの書き手、という印象がある。もちろん、「幼年期の終り」「2001年宇宙の旅」「都市と星」そして短編では「星」「太陽系最後の日」といった思想的な作品やアイデアストーリー、抑制の利いたユーモア連作短編集「白鹿亭綺譚」のようなエンジニア的・工学的といった枠に収まらない作品群も書いているのだけれど、「渇きの海」「楽園の泉」「宇宙のランデブー」「地球光」とった傑作群を読んでしまうと、いや、そういったイメージに囚われてしまうのも無理はないというか(これは自戒も込めて、だけれど)。
小川一水野尻抱介、そして彼らの先人であるところの(私が勝手にそう思っているだけだが)谷甲州は、そういったクラークのエンジニア的・工学的な視点(ボルト&ナット型のSFなーんていう風にも表現されたりする)を継承し、さらにその先に進んでいる作家たちである。


小川一水で初めて読んだのは「群青神殿」だった。いや、我ながら遅きに失した初遭遇だが。
躍動感あふれる海洋SF。「怪獣」みたいなのも出てくる話なのだが、その怪獣の影響がまず輸送手段の制限という形で世界に影響を及ぼしたりといったところが、なんとも「らしい」。破壊の限りを尽くす悪の怪獣ではなく、もうひと手間かけてるんですな。社会にどういった影響を与えるのか、というところで工夫をしている。
また「回転翼の天使」は現代を舞台にした非SFの航空冒険小説。まさにボルト&ナット型の本領発揮というか。機械油の匂いがしてくるような作品でありながら、爽快感を併せ持った楽しい作品だった。
で、「第六大陸」「復活の地」、ある種眉村卓の司政官的な「導きの星」、今一度航空冒険小説へ挑戦した「ハイウイングストロール」などなど順調に作品を重ね、そしてこの系統の作品の到達点とも言えるような「天涯の砦」発表するに至る。事故で漂流を始めた宇宙ステーションでのサバイバル劇。科学公証と想像力をフル回転させたエンタータイメントだ。
で、だね。
何がすごいって、その後に発表した短編集「老ヴォールの惑星」と「時砂の王」がすごいのだ。
ここまで、必要以上にボルト&ナット型と強調してきたけれども、そういったイメージを破壊するような多様な姿を見事に展開して見せたのである。
特に「老ヴォールの惑星」収録の「漂った男」の素晴らしさはなんということか。なぜ、一面海洋に覆われた惑星を延々と漂流するだけの話(しかも気候も穏やかで、うまい具合に「海水」が食用にもなるため食い物の心配もない……まったくもって平穏なのである)が、最後にあそこまでのカタルシスをもたらしてくれるのか。この作品にはボルト&ナット型という形容はまったくもってふさわしくない。
さらに短いながらも読み継がれるべき傑作「時砂の王」はどうだ。荒唐無稽の代表とも言えるタイムトラベルやパラレルワールド、エイリアンの侵略といった手垢にまみれたガジェットを用い(かといって設定が手抜きだというわけじゃない。それは読んでもらえばわかる)、その先に提示されるのは茫洋としてかつ壮大な時の流れの姿だ。どうしたらこんな壮大なビジョンがこんなコンパクトな長編にまとまるのだ。
より多彩な武器を身につけた小川一水は、以前から彼が私たちに見せてくれていたものを、より鮮やかに見せてくれたのである。


実は、私は野尻抱介のいい読者ではない。
傑作と名高い「ふわふわの泉」も読んでいないし、「ロケットガール」も読んでいない。「太陽の簒奪者」は割と出てすぐ読んだが、〈クレギオン〉読んだのだってつい最近だし。
いやね、白状すると、特に理由のない偏見で――いや、もっとはっきり書いてしまうか。野尻抱介氏、結構ネット上で論戦とか繰り広げてるって話があってね。当の野尻ボード(野尻氏の掲示板です)とかをチェックしているわけでもないのに、どうも「好戦的な人」みたいなイメージをこっちが勝手に抱いてしまっていたんだな。で、あまり意識はしていなかったのだけれど、おそらくは敬遠してしまっていたようなところがある。我ながらもったいないことをしたものだ。ちなみに、そのこちらが勝手に抱いていたイメージというのは、こちらも何歳か年をとったり、ご本人のTwitterでの発言を読んだりしているうちに、まさに勝手なものだったと確信するに至っている。いやあ、なんつーか、実に情けないしもったいない。〈クレギオン〉、富士見の時からもちろん存在は知っていたのに、なんであのころの若い俺は手を出さなかったかなぁ。
関係ないが、某所で「メイ、かわいいよメイ」的な書き込みを読んだ覚えがあるのだが、どう考えてもマージ姉さん最高だろ。理解できない。
まあ、少女vs姉さんの終わりなき戦いはさておき、短編集「沈黙のフライバイ」はスペースオペラではなく、宇宙開発を題材にした作品を収録した短編集といっていいと思う。
クラークの作品が語られる際には「詩情」という言葉が使われることが多い。
今年亡くなられた故野田昌宏氏の有名な言葉で「SFは絵だねえ」というのがあるけれど、クラーク作品の持つ詩情というのも、それに相通じるものがある。ここでいうところの「絵」とは、単純に画像や風景というわけではなく、作品で示されるヴィジョン、もしくは作品から喚起されるヴィジョンといったものをも含むものだというに考えてもらえるとわかりやすい。
今時、ロマンを持たない者は宇宙開発を語る資格がないみたいな世の中だけれど、収録されている短編「大風呂敷と蜘蛛の糸」で展開される圧倒的なまでのヴィジョン、ロマンの塊と言える光景といったらどうだ。学生たちによる上空への挑戦。脳裏に浮かびあがる高空の澄み切った光景。そしてクライマックスで、あまりにもささやかな「蜘蛛の糸」によって示される「この先は確かに宇宙へとつながっている」という感覚。これだ。これこそがハードSFによって喚起される詩情というものだ!


で、谷甲州である。
〈航空宇宙軍史〉である。
未読の方は是非読んでくれとしかいいようがない。これは日本が世界に誇るべきシリーズであるからだ。
太陽系に進出した人類の姿を、これほどまでにリアルに描いて見せた作品を私は他に知らない。この点に関しては、今まで散々取り上げてきた海外の作家たちも及ばない。〈八世界〉のヴァーリィも、〈工作者/機械主義者〉のスターリングも、ベンフォードも、いや、ひょっとしたらクラークですら。
そこに確かに存在する社会観、文明観、そして太陽系という世界の距離感覚、宇宙空間というのはどういうものなのか。
太陽系というひとつの人類社会をここまで構築した作品群は、他には存在しないのではなかろうか。