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万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

浅倉久志氏が亡くなられた。自分がどんな本を読んできたのか振り返ってみよう。


2月14日に浅倉久志氏が亡くなられたそうである。死因は心不全とのこと。79歳。

浅倉久志氏を讃えたり惜しんだり分析したりする文章が少なくない数、ネットにアップされたり雑誌に載ったりするに違いない。なにせ、この人の翻訳がなかったら、SFというカルチャーのかなりの部分がごっそりと抜け落ちてしまっただろうという人であるから。
浅倉氏を個人的に知る人はその人となりや思い出を語るだろう。
また、「宇宙船ビーグル号」のような文句なしのクラシックから、アメリカSFの最新型テッド・チャンまで、仕事の多さと守備範囲の広さを詳細に語る人も出てくるに違いない。
また、その翻訳が如何に優れたものであったかの解説など、この機会にぜひ読んでみたい。黒丸尚氏が亡くなった後にウィリアム・ギブスンの長編を翻訳したのは浅倉氏だった。ディックの傑作「暗闇のスキャナー」(あの山形浩生氏が翻訳だ)が、映画化に伴いハヤカワ文庫から「スキャナー・ダークリー」として改訳版が出版された際も浅倉氏が翻訳だった。黒丸尚山形浩生といったらこれまた翻訳者としてはビッグネームである。その翻訳を大ベテランが引き継いでしまうわけであるから、なんというか、EXILEのボーカルが忌野清志郎に入れ替わって、「えーーーーー!!!」とか驚いたけど聞いてみたらカッコいいから納得せざるを得ない、みたいなものであろうか。
とはいえ、一番多いのは、氏の翻訳した本の個人的な思い出を綴る文章だろう。
私も、その末席に加わってみようと思う。
以下、だらだらとどういう本を読んできたかについて自分語りをしていく。その中で浅倉久志訳のものについては、太字で強調していってみよう。

私は1975年生まれであり、SFを意識して読み始めたのは高校生になってからだ。SF小説を読むには、色々と間に合わなかった世代である。スターウォーズブームも終わっていたし、サンリオSF文庫や奇想天外は既に無くなっていたし、SFアドベンチャーも終焉を迎えようとしていた。
浅倉氏がSFの紹介者として一番活発だった時期にも間に合っていない。影響を一番強く受けたというのは、おそらく私よりも少し上の世代だろう。
SF小説への入り口は、町に一軒だけあった小さな小さな本屋においてあったフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」だった。それまでも本は割と読む方だったとは思うけれど、今思えば、それらはもてなしのいい本ばかりだったと思う。この本で初めて「全然わけわかんねえけど、なんかすすげえ!」という体験をしたわけである。
そして「こんなすごい本があるSFってのはすごいに違いない」と、SF小説を意識して読み始めたわけである。そして実際、SFはすごかった。

まずはディックの他の作品を読んでいくところから始めた。「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」「ユービック」「火星のタイムスリップ」「流れよわが涙、と警官は言った」「去年を待ちながら」「暗闇のスキャナー」。そしてとうとう向こう側に行っちゃったという意味での「ヴァリス」。あいかわらず、全くわけはわからなかったのだけれど。
そして、ディック以外の作家も読み始めることになる。「SFハンドブック」が地図代わりだ。

例えばヴォネガットの「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」 人によって読み方は様々だろうけれど、金と悪意をめぐるこの物語に込められた怒りのすさまじさに圧倒された覚えがある。「心優しきニヒリスト」という呼び名でもわかるように、ヴォネガットというとユーモアと皮肉と諦観の印象が強いが、本書を特徴付けるのはその怒りの強さだ、と今でも思っている。

例えばウィリアム・ギブスンの短編集「クローム襲撃」所有の「冬のマーケット」。テクノロジーが「人間とはなんなのか」という価値観を改変していくというビジョンを実にスマートに提示してみせたこの短編は、それとは逆のまるで迷路のようにごちゃごちゃしたスターリングの長編「スキズマトリックス」とともに、私の中でサイバーパンクというジャンルを象徴する作品となった。

例えばR・A・ラファティの理解をできない短編群。短編集で一番名前が知られているのは「九百人のお祖母さん」だが、説明とかなしに突拍子の無い、なおかつくだらない、それでいて底が見えない発想が生のままで提示されるその作品はまさに「変態」という言葉がふさわしい。不条理で残酷で滑稽で馬鹿。しかし、その背後には私たちとは異質の論理が展開されているのに私たちがそれを理解できないだけ、といったような独特の感覚だ。

例えばコードウェイナー・スミスの<人類補完機構>シリーズ。遠い未来を舞台にした、華麗で、筋だけ見ると単純にすら思えてしまうが、その物語の背後に潜む語られていないものの存在が実に大きく感じられてしまうようなスケール感。唯一の長編「ノーストリリア」。そして「鼠と竜のゲーム」「シェイヨルという名の星」「第81Q戦争」といった短編集をすべて読んでも、よりいっそう語られていないものの存在感が増してくる。

そしてベタではあるけれど忘れられないのがハリイ・ハリスンの「宇宙兵ブルース」であったりして。
もうベタな反戦コメディSFなのだけれど、ありそうでない気がするのである。これを喩えにだすのは適切かどうか分からないけれど、山本弘の「ギャラクシー・トリッパー美葉」がベタなコメディスペースオペラなのだけれど、じゃあ他にこんな作品がこのクオリティでたくさんあるかというと実はほとんどなかったりするじゃない。反戦SFでも「終りなき戦い」とかバーサーカーシリーズの「グッド・ライフ」とかあるけれど、それを良質なコメディに仕立て上げたものというと、あまり思いつかない。

またジェイムズ・ティプトリー・ジュニア。彼女の作品を特徴付けるのは非情さだと思っていて、そしてそれは心の動きというものをどうにかこうにか数値化して解析してみると、あら? どうもイメージと違うものが見えてくるな、という心理学を彼女が学んだことと無縁ではないと思っているのだけれど。
愛はさだめ、さだめは死」に所有されている、今でも個人的なオールタイムベストに君臨する短編「接続された女」などは、今振り返ってみると偉大な社会心理学者スタンレー・ミルグラムの「シラノイド」という概念を小説に導入した作品としても評価できたりする。


もうこれくらいにしておきますか? 自分でもお腹いっぱいになってきたし。いや、でもまだまだこんなもんじゃないんだよ!
フリッツ・ライバーの<ファファード&グレイ・マウザー>シリーズだって、いつかまとめて読んでやろうと思っていて、まだ読んでいないんだよ、俺!