万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

グールド「神と科学は共存できるか?」……本当、グールドとドーキンスは仲良く出来ないね(笑)

2007年11月16日に万来堂日記2ndに投稿したエントリの再掲です。
http://d.hatena.ne.jp/banraidou/20071116/1195171404






グールドの「神と科学は共存できるか?」を読了した。そう、今年話題となった本、ドーキンスの「神は妄想である」の中で、えらく批判されていたあの本だ。
しかし、グールドとドーキンスは仲良くできないね。グールドが亡くなった後でさえこれだものな(笑)。仲良くケンカしなってか。
ドーキンスの本はいってみれば「無神論者のススメ」であった。ドーキンスの本はグールドが亡くなった後の刊行であるから、グールドが「神は妄想である」を批判しえるわけはないのだけれども、いや、健在だったなら間違いなく批判しただろうな。本当、一見、利己的遺伝子説と断続平衡進化説が相容れないものに見えるのと同様、宗教に対するドーキンスとグールドそれぞれの態度は相容れないもののように見える。
しかし、よくよく考えてみると利己的遺伝子説と断続平衡進化説は別に相容れない理論ではないのと同様に、宗教に対するドーキンスとグールドそれぞれの態度も相容れないものではない。
本当、二人がもっと仲良くするところから始めればよかったのに。と、これは後述するけれど、もうちょっとでそうなりそうだったんだよな、実際。


ドーキンスは「神は妄想である」の中で、一神教、もっとぶっちゃけるとキリスト教、もっともっとぶっちゃけると原理主義とか創造論とかID理論とかをけちょんけちょんに批判した。いや、原理主義とか教条主義とか創造論とかID理論とかを斬って捨てる行きがけの駄賃で、一神教そのものも斬って捨てたような、えらく攻撃的な著作だ。
対して、グールドの主張はもっと穏やかで、妥当で、言葉にすると実につまらない。要するに「科学と宗教はお互いに縄張りが違うんだからさ、お互いに縄張りは尊重してうまくやっていこうよ」というものだ。ほら、つまんないでしょ?


本書における科学と宗教の関係を、グールドに敬意を評して野球に喩える*1と、それは精神論と科学的トレーニングの違いのようなものだ。思い込んだら試練の道を、行くが憎いぜド根性ガエル。タイヤを引きずったり、うさぎ跳びしまくったり、練習中は水を飲まなかったり。嗚呼、なんとも厳しくも美しい精神論の世界よ。血の汗を流したら色々まずいが死ななければOKだ。
いや、待った。そんな非科学的な! うさぎ跳びは膝を痛めるし、練習中でも少しずつ水分は取ったほうがいいし。同じ労力なら、もっと効率よくやらないと。過ぎたるは及ばざるが如しってね。
うん、正にその通り。では、現代では精神論など全く無価値ですか? いやいや、そんなわけはない。貪欲に新たなトレーニング法を開拓したりするのには精神論的なものが伴うだろうし、そもそもがトレーニングに励むこと自体に精神論的な裏づけが必要な時だって多いだろう。
つまるところ両方ともが必要なのだ。科学と宗教もまたしかり。


このつまらない主張を、グールドは論じていく。過去の聖職者、過去の科学者がいかに縄張りの不可侵について自覚的であったかを賞賛してみたり、逆に宗教が科学の縄張りを侵犯した例、逆に科学が宗教の縄張りを侵犯した例を挙げて批判したり(そう、本書の矛先は宗教だけではなく科学者にも向いている)。ヴァチカンにおける進化の扱いの変遷の検証や、いかにして「中世では地球は平らだと信じられていた」という「伝説」が生まれたかの検証などは、科学史にも造詣が深いグールドの独壇場である。


さて、グールドのことをよく知らないといった向きには、この穏健な主張はなんとも腰の引けたものに見えるかもしれない。ドーキンスのグールドへの批判も正にその点であった。
いやいや、ちょっと待っていただきたい。片やドーキンスはイギリス人だ。片やグールドはアメリカ人。そう、創造主義の本場、アメリカで最も著名な進化論者なのである。創造主義との戦いにおいて、彼ほど最前線に位置してきた人物というのも、そうそういないだろう。実際、本書でも公立学校で進化論を教えることに関する裁判での体験が記されている。そして大事なことだが、科学教育の場に(まさに縄張りを踏み荒らして)入り込んできた創造論を駆逐するために立ち上がった誇り高き人たちの中に、多くの宗教関係者たちもいたことを強調している。そして、この言葉にいたるのだ。159ページより引用しよう。

敵は宗教ではなく、教条主義と不寛容である――人類と同じくらいに古く、永続的に警戒することなしには廃絶することができない伝統である。


そう、グールドは「科学 対 宗教」というわかりやすいラベルを剥してみせた。彼の敵には、そんなわかりやすい名札はついていないのだ。時に、グールドは科学者をも舌鋒鋭く批判する……彼のエッセイ集のなかで最も攻撃的なもののひとつに、IQを元にアメリカへの移民を選抜しようとしたという歴史事実についてのものがある。IQという尺度の妥当性の問題もあろうし、移民に対して英語でテストを実施するという手法上の見過ごしがたい不備もあろう。しかしなにより、科学が、事実の探求と記述という自らの縄張りを踏み越えて、よりよきものを判断しようという領域侵犯を犯してしまったのだ。グールドが怒らないわけがない。え? その手の誤りは科学の本質的な部分ではないって? もちろん、その通り。では、十字軍の遠征や9.11やイラクへの侵攻は宗教の本質的な部分だろうか? アメリカの公教育を守るために多くの宗教関係者が名を連ねたというのに? 現在では進化論も地動説もガリレオの裁判が不当であったことも、ヴァチカンが認めているというのに? 多くの人が口をそろえて非難する、その非道で非合理な振る舞いは、本当に宗教のエッセンスなのだろうか?
グールドはノーといい、ドーキンスはイエスというだろう。しかし奇妙なことに、二人とも攻撃する相手は同じなのだ。相手を見つける筋道やその呼び方は異なっていても、その指し示すものはひとつなのである。
そこに、二人が協力できる余地がある。力の入った訳者解説でも触れられているように、それは実現直前であった。ID理論の一派へ共同で公開書簡を送る直前まで来ていたのだ! しかし、グールドは他界してしまった。
グールドの方向性にドーキンスの攻撃性が加わったなら、向かうところ敵なしであっただろう。進化論ではお互いを賞賛はしつつも最後まで手を携えることのなかった二人が、手を携えたかもしれなかったのだ。
これが大きな、あまりにも大きな可能性の損失である。という悲しい気分で、この文章はおしまい。