華氏911を見に行こうと思いつつ、今日も貴重な休日が終わってしまったわけですが、そのタイトルの元ともなったブラッドベリの「華氏451度」を、ちょっと前に読み終わりまして。
なんかあれだ、警句の塊のような作品だな。
ちょっといくつか引用してみましょうか。全てハヤカワ文庫NV「華氏451度」(宇野利泰 訳)によります。
それが二十世紀になるとカメラのうごきがすばやいものになる。本だって、それにつれて短縮され、どれもこれも簡約版。ダイジェストとタブロイド版ばかり。すべては煮つまって、ギャグの一句になり、かんたんに結末に達する
ダイジェスト版のダイジェスト版、そのまた、ダイジェスト版。政治問題? そんなものは一段でよかろう。二行もあればたくさんかな。なんなら、見出しだけにしておくか。どうせ、みんな、消えてなくなることだ! 人間の思考なんて、出版業界、映画界、放送業界――そんな社会のあやつる手のままにふりまわされる。不必要なもの、時間つぶしの存在は、遠心力ではねとばされてしまうのが運命なんだ!
いよいよ数すくなくなった少数派には、自分たちのことを自分たちで処理してもらわなければならぬ。つまらんことを考える著者には、タイプライターをしまいこんでもらう。そして、事実、そういうことになった。雑誌はヴァニラ・タピオカのみごとな混ぜあわせになり、書籍は、気障な批評家どものことばを借りれば、皿を洗った汚れ水みたいなものになった。これもやはり、批評家連中のことばだが、本が売れなくなったのに、なんらふしぎはないんだ。もっとも、大衆は自分たちの好きなものを知っているから、陽気に立ちまわりながら、漫画本だけはのこしておく。立体的《性》雑誌はもちろんのこる。
これはけっして、政府が命令を下したわけじゃないんだぜ。布告もしなければ、命令もしない。検閲制度があったわけでもない。はじめから、そんな工作はなにひとつしなかった! 工業技術の発達、大衆の啓蒙、それに、少数派への強要と、以上の三者を有効に使って、このトリックをやってのけたのだ。今日となっては、むしろかれらに感謝しなければならない。おかげできみたちは、このように幸福でいられるんだ。連続漫画は見られるし、古い時代の懺悔録と業界新聞にだけはこと欠かない
「華氏451度」は、書物を所持することすら違法になってしまったディストピアを舞台に、違法な書物を焼く焚書官(Fire man)を主人公に据えたSF文学の傑作のひとつ。
ブラッドベリはこれを1953年に書いていた。すごいね。