色んな人の感想や批評を網羅する体力も時間もないけれど、いくつか集めてみた。
ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 - 「ユナイテッド93」は究極のジェットコースター映画
映画館の座席に座っていると、ハイジャックされた飛行機に自分が乗っているような錯覚に陥るほどの徹底した迫真性だ。
映画史上最も凶悪なジェットコースター映画といってもいい。
ハリウッドが実話を映画化すると、映画が脚色したことが、その後、事実として記憶されてしまうことが多い。ただ、『ユナイテッド93』は擬似ドキュメンタリー風なので、ドラマ以上に罪が重いかもしれない。
「どういう映画を作るのか?」という点において、これだけ迷いのない映画も少ない。「悲劇の事実」の芸術的記録という意味では、ピカソの『ゲルニカ』や、ウィンザー・マッケイの『沈み行くルシタニア号』(http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/01/w_1.html)に匹敵するんじゃないでしょうか。
私がショックを受けたのは、WTC炎上のニュースを知ったときの機長らの様子。それはあまりにリアルであり、同時に9.11がいかに人々の心理を変えてしまったかを、改めて実感させてくれた。この場面は、内容が真実か否かにかかわらず、高く評価できるポイントだ。すごい演出である。
ここにもし仮に、見ている人間にテロリストたちへの共感を催させるような、あきれるような偽善的メッセージを語らせたりしようものなら、それこそ最大の興ざめだったろうが、グリーングラスはそんなことはしなかった。わからない相手のことは、わからないままにしておくこと。「沈黙」*2でさえない、「異語」を話す存在が、ただあの機内にいたという状況。ここでも、物語は徹底的に廃されて、ただひたすら考えられうる「状況」への、グリーングラスの丁寧な献身が見られる。
ボーン・スプレマシーにおいて、記憶喪失のスパイが主人公であったことは、彼の思念に対して、彼の肉体の方が彼の「アイデンティティ」に先行してしまっているという、この「状況」の独立こそ、監督が欲したことだった。
araig:net - ポール・グリーングラス『ユナイテッド93』
確かに、この映画には政治的対立は問題とされていない。そのようなレベルを完全に廃してしまっている。だが、僕の眼にこの映画がこのように知覚されてしまったことは、政治的プロパガンダよりもましなことだろうか。あるいは、監督はこの悲劇をこのように表現することによって、その不毛性を映し出し、それをもって彼なりの道徳的立場を提示したのだろうか。だがしかし、監督は何かに酔ってしまったのではないかという疑念を拭い去れないでいる。それが僕には非常に恐しい。
では一体、僕たちは何に感情移入していたというのか。乗客でもなくテロリストでもなかったとすれば、それは恐らく、主体から切り離された緊張感そのものにだったのだ。
いってみれば、視覚上のスペクタクルは、「帝国」的な演出だとすれば(たとえば私たちは、衝突、炎上するWTCを様々な角度から遠巻きにとらえる映像に、そのようなスペクタクルを読み取ったのではなかったか)、知覚感覚の直接的なハイジャックを、「マルチチュード」的な演出と呼んでみたい気もするのだけれど、「ユナイテッド93」のとりわけ終盤は、ネグリ+ハートが、超二分法的な演出を施す「帝国」に対して「マルチチュード」を対置するときの、批評性の裏に隠れて見える危うさがあるのではないかと、「araig:net」氏の「危惧」に感化されながら思ったのである。
正直に告白すると、この映画のラストで僕が感じた無念さは、乗客への同一化によるものだったのか、あの眼鏡の青年への同一化によるものだったのか、いまでもよくわからないままだ。
物語の内容面においては安易に政治的な理念を口にすることなく、(良い意味で)俯瞰的な視点を徹頭徹尾欠いたままに映画は終わるのだけど、もっぱら評判となっているこの映画の迫真性は何によるものなのかを考えるとき、その内容面ではなく語りの形式に着目すると、むしろドキュメンタリーとは真逆の方法によって構成された映画であることには留意しておいた方がいい。
『ユナイテッド93』ー作り手に拍手。製作者に拍手の映画:俺の映画日記
つまり、フィクション性は「事件」そのものにあり、物語には、記録の側面しか求めなかったのだ。
しかし、「事実」そのものが、いわば強烈なフィクションなのだから、その最大のフィクション性を
壊さない形で、物語る(=記録する)事に徹した結果、ここまでのリァリテイーを得た・・という事、
そんな感じなのではなかろうか?
「ユナイテッド93」監督に拍手 - 再出発日記 - 楽天広場ブログ(Blog)
この映画のもう一つの柱は、管制塔や軍の情報管理のあり方であろう。目の前のワールド・トレードセンターに火災が起こり、さらにもう一機が突っ込むまで、これが自爆テロだとは気がつかないでいる。情報が交錯し、のっとり機は5機であると信じられ、のっとり機がどこを飛んでいるのか、管制塔も軍も全然把握できていない。これが世界最高峰の情報管理システムを持つ国の姿なのである。
キネマ旬報9月上旬号を読んで思ったのは、渡辺武信氏のむごさ。「日活アクションの華麗な世界」で著名な、建築家でも詩人でもあるお方だと思うのだが。『ユナイテッド93』の批評で★2つ、これは4段階で下から2つめ。他の三人が★4つ1人に3つ2人で、ではどうケチつけているのかとみると・・・
乗客や乗組員がすべて無名の俳優であるため、群衆劇として見るなら、誰が誰だか分からないがゆえの余計な負担を強いられる。スターは使えないにしても、機長や乗客のリーダーなどには顔で分かるバイプレーヤーを起用したらよかったのにと思う。
これは、★のバランスとるために無理矢理でっちあげた作文、ですよね?ちょっと目を疑った。こんな批評で、試写行ってカネもらってんのかひょっとして。ブロガー怒るよ。
今の俺は、この映画の感想を上手に書けるだけの
ボキャブラリーを持っていない。
そしてこれは映画の話ではないけれど
■「撃墜された」ユナイテッド93:その証拠と証言の数々/ヒロさん日記
及びその元記事
Flight 93 'was shot down' claims book by ROWLAND MORGAN:Daily Mail
追記:さらに追加
どんな過程を経ようとも、この映画が9.11を題材にしている以上、最終的には乗客乗員全員が死ぬのであり、その事実を知りながら観客は映画を見ている。そんな映画に何かを期待して鑑賞すること自体、どうしても後ろめたい気分を引き起こさせる。でも、このテロを思い起こす以上、そこには常にこの後ろめたさがつきまとう。問題は、それを受け止めた上で、何を感じるかである。
「ユナイテッド93」において印象に残るのは、まさにテロリストがわれわれの過剰としてあらわれるようすである。彼らは、祈りの言葉を口にすることで、自らをふるい立たせ、残虐な行為に向かっていく。しかしまた、自らの乗った飛行機が、ハイジャックされたと知った乗客たちも、一心不乱に祈るしかない。
S-killz to pay the ¥.:[映画] ライセンス・トゥ・KILL 〜「ユナイテッド93」〜
実際のところはどうだったか定かではありませんが、この作品でのテロリスト/ハイジャック犯の描き方が、私にはとても公平には思えず、物凄く稚拙な描き方に見えて、「こんな奴らにこんなことされてムカツクだろ?!」という悪意ある煽りのようなモノを感じ取ってしまいました。そして、終盤にこれでもかと繰り広げられる「もう俺達助からない。あいつらのせい。あいつらテロリストだから虫けらのように殺してオッケー」というゴーサインが出た時の、ある種の火事場のクソ力的な“人間の突進力”には、恐怖を感じつつもゲンナリして疲れてしまいました。
kate*の、にちようび日記。:[cinema。] 「ユナイテッド93」
テロリストたちも、乗客乗員も、みんなみんな、それぞれのコトバで“I love you”と言いながら、フライトアテンダントは職務に当たり、同乗した緊急救命士は刺された乗客の手当てをし、勇気ある乗客は操縦席にいるテロリストに立ち向かって行き、そしてそのテロリストはCapitol Hillに向かっていったということです。「テロリストにも五分の魂」ということなのか。
色々皮肉を言うのは今日は止めにします。「どうせツクリモンだ」とか「勇気あるアメリカ市民を演出したいだけだろ」とか「愛国心高揚のために事実を曲げて報道/創作された」とか、言いたい人いっぱいいはると思うし、私もきっとそう思うかもなあ、何やねん、またアメリカさま礼賛かよ!と思う結果になったら嫌やなーと思っていたけど、もうそんなことはどうでもいいです。
ほんま、どうでもよい。