万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

ドーキンス「祖先の物語」を読み終わった。

なんと野心的な試みだろうか。
生命の誕生から現在までを描き出そうと言うだけでも野心的な試みであるのに、それを人間からその祖先に向けて、逆向きにたどっていくなんて(例えばリチャード・フォーティの「生命40億年全史」は同様の試みであった。素晴らしい本だけれど、たどっていく向きは当然ながらドーキンスとは逆だし、進化についてというよりもその時代にどのような生物が生きておりどのような風景が広がっていたかという点に力点を置いており、「祖先の物語」とはだいぶ趣が異なる)。
本書は人間から出発し、その次はチンパンジーと人間の共通する祖先、その次はゴリラとの共通する祖先、さらにその次は……という具合に私たちがやってきた旅路をさかのぼっていく。そしてその度に、チンパンジーは自分たちが「進化」について語ることのできる物語を語り、ゴリラはまた自分たちの物語を語り、やがて合流してくる仲間たちの数は膨大なものとなっていく。


本書の魅力のひとつは、その多様さと共通点とのせめぎあいにある。
過去への巡礼が進むにしたがって、私たち人間の遠い親戚たちが、それぞれ長い旅を経て私たちに合流してくる。その連中の様々な事といったら!
生命というものはなんと多様な姿をしており、なんと多様なボディプランを持ち、なんと多様な生活をしているものか。
それだけでも素晴らしいのだが(例えばその素晴らしさを極端な形にまで拡大してみせたのが故スティーブン・J・グールドの「ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF)」であり、もう少し穏健にそれをしてみせたのが「フルハウス 生命の全容―四割打者の絶滅と進化の逆説 (ハヤカワ文庫NF)」だった)、話はそれだけでは終わらない。奇奇怪怪な仲間たちは、何も人間を楽しませるために話をしにくるのではない。彼らが物語るのは「私がいかに変わり者であるか」ではなくてその反対「君たちや私たちを含めた『生命』というものはどんな風に生きてきたのか」なのである。他人事ではないのだ。
チンパンジーならまだわかりやすい。しかし、申し分なく紳士的なカリフラワーが向こうからやってきて、その頃には膨大な数となっている過去への旅団について、言い換えると「自分たち」について話し始めるところを想像してもらいたい。そんな突拍子もないことを実現してしまっているのだ。しかも、旅はカリフラワーたち「植物」の団体と合流して終わりではなく、その先もまだまだ続くのだから。
あまりに異質な仲間が、その本人をも含めた大きな全体に共通する物語を語る。
生命というものはなんと素晴らしいことか。まさに「ワンダフル・ライフ」。
この壮大な企ては、ドーキンス流の「ワンダフル・ライフ」であるとも言えるだろう。
すなわち、存命する中ではおそらく最高ランクの進化論者が、自らの生命観を余すところなく提示して見せたのだ。こんなことは、100年というスパンで見てもそうそうあることではない。
愛すべき宿敵であったグールドは、邦訳が待たれる大著“ISBN:0674006135:title”で自らの総決算を飾った。
そしてドーキンスは「祖先の物語」で同じく、自らの集大成を見せてくれた。
私の部屋の貧弱なカラーボックスの最上段で、この2冊の本が隣り合って納まる日が待ち遠しくて仕方がない。その日は間違いなく記念すべき日となるだろう。