万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

競馬と擬人化の甘い関係

昔は毎週地元の新潟競馬場に通っていたのだけれど、転職したり転勤したりで、ここ数年は年に数回しか競馬場に行っていない。でも競馬は今も好きだ。
本日はディープインパクト凱旋門賞に挑戦する。世界に権威あるレースは数々あれど、芝のクラシックディスタンスでは最高峰と目されるレースである。エルコンドルパサーが最も近づいた夢を、ディープインパクトが再び追っている。


競馬の楽しみ方はたくさんあると思うのだけれど、馬を擬人化して楽しむというのも大きなウェイトを占めている様に思う。
競馬漫画の金字塔であるところの馬なり1ハロン劇場を筆頭に、優駿たちの蹄跡であったり、優駿の門であったり風のシルフィードであったり。馬そのものよりも人間と競走馬のかかわりの方に重きを置いた名作であるじゃじゃ馬グルーミンUP!でも、競走馬の描写にいくらかの擬人化を施している。
今手元にないのだけれど(読み返したいんだけどなぁ。実家に置いてきたみたい)、高橋直子の「芦毛のアン (ちくま文庫)」も馬を擬人化して捉えていた。ありゃ面白かったな。


何もコミックやエッセイ、競馬を扱った小説に限ったことではない。競馬ファンが競馬を楽しむ上でも、馬の擬人化は欠かせないと思う。
最初に断っておくと、馬を擬人化して捉えなくても、それでもなお競馬というのは魅力的なものであり得る。
例えば、実に強い勝ち方をみるっていうのはとても気持ちがいいものだ。例えば、希代の逃げ馬であるサイレンススズカの逃げ。そしてそのサイレンススズカを規格外の足で差し切ってしまったマチカネフクキタルの鬼足。当時ダートの短距離の最強馬であった(と私は信じて疑わないのだけれど)ブロードアピールの何もかもが規格外の末足や正に横綱相撲という形容がぴったりのテイエムオペラオーのレース。また、フロック視がまだ残っている中、これ以上ない横綱相撲でダービーを制して見せたサニーブライアン最後のレースなど、例を挙げればきりがない。
年に数回しか競馬場に行けない(っていうか、今年は一回も行ってないよ! 畜生!)と書いたけれど、その数少ない機会に、たまたま今年のクラシック戦線有力馬であるフサイチパンドラを見る機会に恵まれた。ターフを走っている若駒たちのなかで、まさに「積んでいるエンジンが違う」感じの、あの切れ味の見事なことといったら!


その他にも、競走馬と関わる人たちの側から、ストーリーを構築して楽しむというのもある。
ホッカイドウ競馬の夢や期待を背負ったコスモバルクの動向をそのような観点から注目している人は多いだろうし、ウイニングチケット柴田政人騎手の関係もそうだろう。また、厩務員の方が書いた文章というのは馬への愛情が伺えて、読んでいて思わずニヤニヤしてきてしまう。
サイレンススズカが悲劇的な死を遂げた翌年の秋の天皇賞。ちょうど故障が発生したあたりの馬場を検分する武豊騎手の姿があった、なんていう話もある。その時武豊の胸を去来した思いはどのようなものであっただろうか。


にもかかわらず、競馬を楽しく見る上で、擬人化というのは欠かせない。
ステイゴールドが、その長い競走馬としての生活を異国でのG1制覇で締めくくったとき、私たちが感動したのはなぜか。それはステイゴールドを少なからず擬人化して捉えていたからに違いない。
ナリタトップロードが若くして天に召されたとき、私たちがあれほど悲しんだのはなぜか。これもやはり擬人化の大きな効用だろう。
ホクトベガの悲劇が遠いドバイで起こったとき、ホクトベガは一瞬踏ん張って、鞍上の騎手をかばったという話が伝えられている。サイレンススズカが命を散らしたときもやはり同じような話が伝わっている。


「擬人化」という言葉にネガティブなイメージを持っている人も中にはいるだろう。けれども、私はこの文章において擬人化というものをポジティブなものとして捉えている。


心の理論、というものがある。簡単に言うと相手の心情、心境を推測する能力。相手の心理状態をシミュレートする能力のことだ。
幼児の発達の研究や自閉症の研究、はたまたサイコパスの研究などで「どーもこれって、人間の認知を考えていく上ですっげえ重要な能力なんじゃないの?」ってことになっている。
擬人化というのも、心の理論の表れとして捉えることができると思う。というより、人間と擬人化は切っても切り離せない、本質的な部分に関わる事柄であると言えるだろう。


つまり、競走馬を擬人化して競馬を楽しむというのは、そもそもが人間の認知の本質をなす要素を総動員して競馬を楽しんでいるということだ。
大体、「秋の天皇賞当日、去年サイレンススズカに故障が発生した付近の馬場を検分する武豊騎手」の心理状態だって、私たちは「心の理論」を用いて推測しているのだ。両者はまるっきり同じことではないかもしれないが、とても似たようなことなのである。
競走馬を擬人化して楽しむことは、私たちが普段思っている以上に人間として本質的な、愛すべきことであると主張したい(まあ、何事も行き過ぎはよくないですが)。


さて、今日は凱旋門賞の日。
エルコンドルパサーが見た夢の中を、ディープインパクトは歩んでいる。
今から楽しみで仕方がない。