少し前に話題になった本だけれども、ピエール・バイヤールの「読んでいない本について堂々と語る方法」を少しずつ読み進めている。
その本の中で「屈辱」というゲームが紹介されている。
このゲーム、デイヴィッド・ロッジの「交換教授」という小説に出てくるものだそうで、孫引きになるが「交換教授」から該当箇所を引用すると
彼は一同に大学院時代に発明したゲームを教えた。自分がまだ読んでいない有名な本を各人で挙げ、すでにそれを読んだほかの者一人につき一点獲得、というゲームであった。南軍兵士とキャロルの二人が、それぞれ『荒野の狼』と『O嬢の物語』で六点満点のうち五点を取って勝った。どちらの場合もフィリップがいたために満点とはならなかったのである。彼自身が挙げた『オリヴァー・ツウィスト』――たいていはこれで勝つのだが――は全然駄目だった。
バイヤールはここからさらに教養の本質とはなにかといった方向へと筆を進めていくのだけれど、いや、これ、単純に面白そうじゃないかい?
例えば、ネットで小説というとライトノベルの話題がよく目についたりするわけだけれど、その中には有名な人もいたりするわけで、そういった人たちが何人か集まって「屈辱」を始めたりした日には、見てみたいなぁ、面白そうだなー、と。
はたまた、私のブログでもたまーにSFについてのエントリを上げるとぽちぽちとブックマークしてくれる人がいたり、「これは面白いSFだぜ! 他の人の感想が気になるぜ!」なーんて時に感想を求めてネットを検索してみると、大体同じようなサイトが引っかかってきたりとか。
私はミステリ方面詳しくないけど、ミステリ系のブログはSFなんぞよりも広いというじゃないか。ミステリ系のブログな人たちが実はどんな本を読んでいないのか、とか。
SFファンの話題になると高い頻度で出てくるのが「SF? まずは千冊読め」的な、排外的な教養主義だけれど、「読んでいない本について堂々と語る方法」というのは、その手の原典に至上の価値を置く教養主義を嘲笑う側面を持つ意地悪な本である。
例えば私を例に挙げるとすると、そうさな、御大アイザック・アシモフ。科学エッセイは大好きで一時期むさぼるように読んだ。「黒後家蜘蛛の会」なんかも面白く読んだのだけれど、実は肝心のSF小説はあまり読んでいなかったりする。銀河帝国興亡史とか「鋼鉄都市」とか読んでないんだよ。目の前に積んではあるのだけれど。
はたまたロバート・A・ハインライン。いやー、実はなーんとなく遠ざけてしまっている作家さんでね。数えるほどしか読んでいない。いつか読みたいなとは思っているんだけどね。「愛に時間を」と「夏への扉」「ラモックス」くらいしか読んでないんじゃないかな? あまり積んでもいなかったり。
それでもアシモフについては科学的なアプローチに加え実は歴史学的なアプローチが云々とか、それは実は科学エッセイにも顕著に云々とか語ったり出来ちゃう。
ハインラインにしても「宇宙の戦士」で愛国主義的な云々、その返答としてのホールドマンの「終わりなき戦い」やそれを正しくコケにしたハリスンの「宇宙兵ブルース」云々、逆のアプローチで原作のメッセージ性を裏返して見せた映画「スターシップトゥルーパーズ」云々、さらにテロ・地域紛争の時代における現代での個人主義的な返答が「虐殺器官」「ハーモニー」で云々とか、色々広げたりすることまでできちゃうわけで。
つまり、本というのに含まれる情報は、そりゃ本文とあとがきくらいしかないんだろうけど、本に関連する情報というと無限に湧き出てくるわけで。そういった情報を語ることも「本」について語ることに他ならないし、如何にそれらを関連付けて語っていくかというのもそれ自身豊かな情報となりうる、みたいな。それが「読んでいない本について堂々と語る方法」がとる立場の一つ*1。
「古い世代の教養主義に反抗する」みたいな盛り上がりというのが、Webでは定期的に見られるような気がするのだけれど、じゃあ教養主義そのものが解体されつつあるかというと、どうもそんな気もしなかったりする。実はその背後にあるのは教養の基盤を成す知識の多様化と移り変わりであるのじゃないだろうか。昔からある程度共通の「教養」なんてのが通用するのは狭い範囲でしかなかったんだろうけど、それがさらに狭くなり、しかもそんな狭い集まりがたくさん出来ている。SFに興味のない人にとっては、さっき書いたような「アシモフ云々」や「ハインライン云々」の文章がまったく意味不明であるように、私にとっては同人知識を踏まえた文章はよくわからないし、プログラミングに関する文章に至ってはきれいな文様にしか見えない。Twitterのタイムラインをぼんやり眺めていたりなんかすると、まあ各人が各人の教養で話しているのがよくわかるよねぇ(笑)。
まあ、そんなことは結構みんな思いつくことだし、これもまた誰かが定期的に指摘していることに違いなかろうと思うのだけれど。
ではそのさらに狭くかつ多様化した「教養」が強力な、一枚岩的なものかというと実はそんなことはなく、それこそ「屈辱」なんていうゲームが成立してしまう程。しかしその緩さ自体がコミュニケーションにおいて重要なことでもあるのだというのが「読んでいない本につい(ry
教養主義というか、教養ってものから逃れられないのなら、せめてそれについて自覚的でいたいなとは思うわけで。まずは自分の「教養」を笑うところから始めていきたいものだな、なんてね。
とりあえずあれだ、俺は「復活の日」読んだことないぞ。
持ってはいるんだけどねぇ……こんなに本ばかり買って、いつ読むんだろうね。貯金しろ、貯金。
*1:まだ読み終わっていません