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万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

林家正雀「水神」は、三遊亭圓生「水神」とどうちがっていたのか

いや、まさかブログに落語の感想を書くことになろうとは、去年までは自分でも想像もしませんでしたが、書いてしまいます。とはいえ、生で落語を聞くようになったのは本当につい最近ですので、素人が得意になって間抜けなことを言ってらぁと、生暖かい目でお目こぼしいただけると幸いなんでございますが……


先日、林家正雀師匠の「水神」を見る機会に恵まれました。いやぁ、もう、引き込まれてしまいまして。ぐっと息を殺して見入ってしまいました。終わった後は顔を上げることができませんで。でも拍手は特大の奴を送りたいので、まるで拝むみたいにして前に両手を掲げてバチバチやっていたんであります。
「水神」で泣いた後には桂九雀師匠熱演の「らくだ」で笑わせてもらって、もうお腹一杯という感じで帰途についたんですが。
最近好きで聞くようになったとはいっても、別段落語に詳しいわけではありませんので、ネットで検索して調べてみました。この「水神」という噺、「君の名は」の脚本で知られる脚本家・菊田一夫氏が、三遊亭圓生師匠のために書き下ろした新作落語だそうで。そうなると興味がわきますもので、オリジナルである三遊亭圓生版の「水神」も聞いてみました。
すると、先日自分が聞いてきた正雀版「水神」とは細かい点が異なっていることに気が付きまして。その相違点を書き出してみたところ、「ああ、噺家さんのする「工夫」というのはこういうものなのか」と、感心するばかりでございましてね。
簡単に「水神」のあらすじを振り返りながら、圓生版と正雀版「水神」の違いを書いていこうかな、などと。
しかし、繰り返しますが私は落語に詳しいわけではありませんので、この「工夫」が正雀師匠によるものなのか、それとも他の師匠の工夫を正雀師匠が取り入れたのか判断することができません。検索してみたところ、三遊亭円窓師匠もよくこの噺をかけてらっしゃるようですが、いまだ聞くことができていませんので……


杢蔵という男が、泣き止まない乳飲み子を抱えて縁日の境内で困り果てているところから、この噺は始まります。
この男、おかみさんに出て行かれてしまいまして。それなのになぜ縁日なんぞに来ているかというと、縁日が好きだったおかみさんを探しに来ているという次第。
早くもこの序盤から圓生版と正雀版は違いを見せます。圓生版では、おかみさんは怠け者の杢蔵の甲斐性のなさに愛想を尽かして出て行ったのに対して、正雀版では他に男をつくって出て行ったという設定。それも、縁日で乳飲み子を抱えた姿を目撃した隣人が、見るに見かねて杢蔵にその事を告げるという次第で。告げられるまでおかみさんが出て行った理由を想像もできない。根っからのお人よしなんですね。
圓生版ですと、乳飲み子を見捨てて出ていくというのは、今も昔も、あまり感心できない行動であるかと思いますが、それでも杢蔵に甲斐性があればこうはならないともいえるわけで、おかみさんにも一部の理があると見れなくもありません。


そこに声をかけてきた女が一人、どこか近寄りがたい雰囲気ではありますが凛としたきれいな女性でありまして、年のころなら24〜5。縁日で夜店を出しているのですが、並べているのが柿やら魚の干物やら、どうも統一感がないといいますか、どうも縁日にではあまり見かけないようなものを並べております。
圓生版ではこの女性は全身黒づくめ。正雀版では黒づくめの中にも銀鼠のアクセントが入ります。
困り果てている杢蔵を見てちょっとこちらにと、その場で着物の胸をはだけて赤ん坊にお乳を恵んでくれたその女、名前をお幸と申します。
礼を言って立ち去ろうとする杢蔵を、もし夜に赤ん坊のお腹が空いて泣き出したらどうするんだいと引き止めるお幸。今晩は私のおうちにお越しなさいという言葉に押し切られるように、杢蔵はお幸の家を訪れます。水神様の社の近くに、こんなところに家があったかしらんという一軒家。中に入り赤ん坊にまたお乳をやってもらい、それではこれでお暇をという杢蔵を引き止めるお幸。その晩はお幸の家に泊まります。
このあと、正雀版では圓生版にない場面が挿入されます。杢蔵が朝目覚めると、既にお幸は子供を連れて商いに出かけた後であり、枕元には朝食とお弁当が用意してあります。でていったかかあは、ついぞこんなことをしてくれたことはなかった、ありがてえありがてえと感謝する杢蔵。
ここから、いわば乳飲み子を世話してくれる女性という強力なバックアップを得た杢蔵は仕事に精を出すことになります。仕事は屋根職。圓生版では元々が怠け者でしたが、いいおかみさんをもらって生まれ変わったという具合。屋根の上で仕事をしながらもお幸に思いを馳せて、もうデレデレです。正雀版では別に怠け者という設定はありませんから、前のかみさんが出ていくやらなんやらのゴタゴタで棟梁のところにも顔を出せなかったという風になっていますね。


あっという間に4年の月日が流れました。
ある朝、杢蔵が目を覚ましますと、珍しいこともあるもので、いつもは朝が早いお幸がまだ子供と寝ております。毎日子どもの面倒をみながら商いだ、疲れているのだろうと、少しずれている布団をかけなおしてやろうと布団をめくると……
顔はいつものお幸のまま。ただ、体は一面、烏の羽に覆われております
正雀版では、その羽に包まれて子供もよく眠っているという描写も入ります。
これは烏が化けていやがったんだ……
杢蔵、さすがに驚きますが、考えてみれば、今の幸せな暮らしがあるのもみんなお幸のおかげ。俺が見なかったことにすればそれで済むんだと、布団をかけなおしてそっと部屋に戻ります。
ところが、お幸はそれに気が付いてしまった。
お幸は杢蔵に事の次第を語り始めます。
実は、お幸は水神さまの使いの烏でした。
しかし、ある神様からのお使いの際、まだ若かったものでいろいろと目移り寄り道してしまい、お使いをしくじってしまいました。たいそう怒った水神様はお幸を神様の使いから外してしまいます。しかし、ただの野烏にして田畑を荒らすようなことになってもよくないと、お幸に5年の間、人間の女として暮らすことを命じます。無事に5年を暮らし終えたなら神様の使いに戻してやろう、と。
流れた月日は僅かに4年。5年は経っておりませんで。おまえさんに見られたからに私は明日から野烏になるよというお幸。それを引き止める杢蔵。ついには「惚れているんだよ。俺の傍にいておくれよ……」と、これはもう熱烈な告白まで飛び出します。
それを聞いたお幸が、それじゃあ、私と一緒に烏になってついてきてくれるかい? と取り出したのが黒い羽織。これを着ればお前さんも烏になれる。
杢蔵は烏にならず、お幸は杢蔵のもとを去ります。気が付くと水神様の境内で眠り込んでいた杢蔵。隣には4歳の姿の息子。元の家に帰ってみるときちんと片付いていて、男手で息子を育てたことになっております。ああ、これもお幸が力を貸してくれたに違いない。感謝と愛情はいや増すばかりでございます。
この噺の山場ともいえる場面なんですが、圓生版と正雀版では大きな違いがあります。
圓生版では、ただ単純に、杢蔵は自分が烏になることを躊躇します。もっとも、無理からぬことです。「明日からお前、烏だからな」って、そりゃあ不安ですものね。
正雀版では、子供を烏にすることはできない。つまり、子供を置いていくことは出来ないという理由で、杢蔵は烏になることを拒みます。先に、正雀版では烏の羽にくるまれて子供がすやすや眠っている描写が入ると書きましたが、それがこの決断につながってくるのですね。


相変わらずお幸を恋しく思いながらもよく働く杢蔵。正雀版では演出として、仕事中に烏にお幸のことを尋ね、烏に「アホー」と馬鹿にされるシーンが入ります(圓生版では同じシーンがもっとずっと後、終わり間際に挿入されます。同じシーンを「お幸を思い続けている」ことを示すものとするために移動させたのでしょう)。
よく働き、暮らし向きも良くなってきていることを聞きつけた先妻が戻ってきてやろうかと押しかけてきても、それではお幸に申し訳ないと追い返す。そのうち、息子が奉公に出る歳になりまして、親父さんの働く姿をよく見ていたんでしょうか、こちらもよく働きます。やがて19になった頃、奉公先のお嬢さんに見初められまして、旦那さんもこの働き者なら心配ないというわけで、めでたく、息子は大店の婿養子へと入ります。
杢蔵さん、これが嬉しくて仕方がない。息子夫婦の下へ頻繁に顔を出すのですが……どうもいい顔をされませんで。養子なんだから、あんまりにお父っつぁんが顔を出されたんでは肩身が狭くなって仕方がない。来ないでおくれと、杢蔵、息子に追い出されてしまいました。

圓生版では、このあと、杢蔵は失意の帰途につきます。途中、見かけた烏にお幸のことを尋ねたりなんかいたしまして。ああ、すっかり、人間が嫌になっちまった。と、お幸が残していったあの羽織をもって屋根の上へ。俺は不器用だから烏になってもうまく生きて行かれねえかもしれないけれど、もし死んだのなんだのと聞いたなら線香の一本でもあげておくれよ……と羽織を身にまとい、空へはばたきます。「お幸! おこーう!」と名を呼びながら、はたまた鳴きながら……で、この噺はおしまいです。

正雀版では、失意の帰途に就いた杢蔵、ふと自分の履物の鼻緒が目に入ります。その色は銀鼠。
銀鼠!
お幸は全身黒い着物に銀鼠でした。
そうだ、お幸にもらった羽織があるんだ。
杢蔵、羽織を持って屋根に上ります。
お幸は今どこにいるんだろうか。こちらでも探すけれど、お前も探しておくれよ。俺は烏になるんだ。
杢蔵は羽織を身にまとい、空にはばたきます。
「おお、飛べた! お幸! おこう! おこーーう!」
……と、はばたきながら鳴きながら、この噺はおしまいです。


とまあ、おわかりになりましたでしょうか。

圓生版では、烏になる動機づけとして「人間社会への絶望、厭世観」が中心に据えられています。
怠け者が心を入れ替えて働き者になったが、惚れた女はいなくなり、息子夫婦にも疎んじられて、ああ、頑張ったっていいことなんてありはしなかった、とでも言いたくなるような感じでしょうか。

対して、正雀版では「承認欲求、自分を受け入れてくれる存在への欲求」が中心に据えられています。もしくは、圓生版よりもその要素が強く押し出されています。
まず、導入からしておかみさんに逃げられた理由が「怠け者で甲斐性がなかったから」ではなく、「おかみさんが他に男を作ったから」です。つまり、おかみさんにのっけから自分の価値を否定されてしまった(杢蔵さんが働き者でお人よし、という風に人物造形されているのもポイントでしょうか。「にもかかわらず」否定されてしまったのですから)。
そんな失意の底にいた自分を受け入れてくれたお幸と別れる際に、その決断の決め手となったのは息子の存在でした。自分を信頼し、頼っているであろう息子の存在。いわば、息子から肯定されているといえるかもしれません。その息子さんを見捨ててしまっては、それでは、自分から去って行った、自分を否定したおかみさんと同じではありませんか。
そして、息子が成長し、息子に自らを拒絶されてしまったとき、お幸が残した羽織へと思いが向くのは、もう必然と言いますかなんと言いますか……
息子のためにと拒絶した羽織が、息子に拒絶された今、目の前にあるのです。これを着れば、烏になって、自分が惚れている、自分に惚れてくれているお幸の下へ飛んで行けるのです。
かくして、杢蔵は自分を受け入れてくれる存在の下へ向けて、飛んでいきます。無事に見つかったならハッピーエンドですが、声の限りにお幸の名を呼ぶところで、この噺はおしまいなのです。
正雀師匠は、全編にわたり細かい工夫をし、「水神」を「自らを愛してくれる者を希求する男の話」に再構成してしまった。もう……私なんかでは「すごい」くらいしか言葉が思いつかないんですが。
「厭世観」と「愛情への欲求、承認欲求」どちらが現代的でどちらが普遍的というのは、各人意見も好みもあると思いますが、私にとっては、正雀版の方がより自分に近しく感じることができたように思います。


最後に、一か所。圓生版と正雀版の違いを挙げます。
圓生版では、息子夫婦、婿養子先に杢蔵は疎んじられてしまいました。
正雀版では、息子が杢蔵を追い出した後にお嬢さんが出てきます。お穣さんが言うことには、今、杢蔵お父さんが来ていたんじゃありませんか? (今帰ったという息子の返事に対して) あら、それは残念ですわ、と。本当にあなたはいいお父っつぁんをお持ちだって、私も、私のお父っつぁんもお母さんも、始終話しているんですよ……

その言葉は、ほんの少しの差で、杢蔵には届かなかったのです。