先日、久しぶりに新潟に帰省したのですが、新潟へ向かう列車の中で「偉大な記憶力の物語」を読み終えました。
これはものすごい本ですね。全く素晴らしい。
「事実は小説より奇なり」という言葉には手垢がついて久しいですが、奇であるにも程があるだろ、というのが本書でありまして。
エイリアンってどんな存在か。異質な知性というのはどのようなものかというのは、SF小説が挑んできた難題の一つであるのですけれど、この「偉大な記憶力の物語」の前では大半の(と、言っておきましょう。一応ね)SF作家が頭をひねらせてきた難題への回答が色褪せて見えてしまいますな。
おまけに、このノンフィクションの主人公はエイリアンではなく、まごうことなき人間であるというおまけつきであります。
ほんの少し知覚・認知の様相が違うだけで、なんという世界観が構築されるのかと、驚愕すること請け合いですぜ、旦那方。
この本は、偉大な心理学者であるルリヤが、ある人並み外れた記憶力を持つ人物についてまとめた、臨床的な報告と言えます。オリバー・サックスの先人みたいな感じですかね。
本書の主役であるシィー(仮名)は、並外れた記憶力を持っています。
その並外れた記憶力の源泉は、優れた直感像の能力です。本書34ページの訳注より直感像の説明を引用しますと
過去見たことのある事物や経験を、現在あたかもそれを見ているかのように鮮やかに明瞭に再生する視覚的な記憶像。
さらに、シィーは共感覚の持ち主でもあります。これまた、共感覚の説明を本書23ページより引用しましょう。
共感覚とは、音を聞くと色や形が見えたり、色や形を見ると音が聞こえたり、においを感じる等、一つの様相の感覚(たとえば聴覚)が、別の様相の感覚(たとえば、視覚や触覚や嗅覚)を引き起こすことを言う。
同じく本書23ページより
シィーが曰く「およそ二―三歳のころ、古代ヘブライ語でお祈りのコトバを習いはじめたとき、私はその意味が分かりませんでした。そして、それらのコトバは、私には水蒸気の雲や水煙に見えました。……そして、今でも何らかの音を聴くと、そのように見えます……」。
つまり、私たちにとっては物を見るだけ、音を聴くだけという段階において、彼の世界ではそこに不可避に手触りとか、そういった諸々の要素も追加されてしまうわけです。言い換えると、ある事物に対する情報量が多いとも言えます。
その、豊富な手掛かりにあふれた記憶を並外れた直感像の保持能力(およびそのイメージを操作する能力)でもって空間的に配置することで、彼の強固な記憶力が形成される、とまあ、こういった按配で。
へーー。すごいんだねえ。
いやいや、本書がすごいのはここから先なんですよ。
その、私たちとはちょっと違った認知の仕方が、彼にとっての世界を如何にエキゾチックなものにしているか。それがすごいんですよ、ええ。
彼の直感像が強固であるがゆえに、五感が明瞭に区別できないものとなっています。例を引用しましょう。96ページより。
「私は音にもとづいて、料理を選びます。こっけいなことなのですが、マヨネーズは、大変おいしいのですが、しかし、ズという音が、その味をそこないます……ズという音は、気分のよくない音だからです」。
味覚と聴覚を分離できず、それどころか聴覚が不可避に伴う別のネガティブなイメージが味覚に悪影響を与えてしまうわけです。同じく106ページより
語の内容を語の音声的な響きに対応させようとして、シィーは多くの苦労を味わったが、語のこのような子どもじみた共感覚は*1、さらに長い間残ったのである。
それゆえ、彼は小説や詩を読むのに非常な困難を伴ってしまいます。118ページより
「『カメレオン』をどなたか読みましたか? 『オチェメーロフは新しい軍用外套を着て外に出た』。彼は外に出て、このような場面を見たとき、彼曰く。『さあ、警察署長、私から外套をぬがせよ……』。私は自分がまちがったと思い、はじめの方を見ました。やはり、そこには軍用外套があるではないですか……まちがったのは、チェーホフで、私ではないのです。
言葉が違うと、それに伴うイメージがあまりに異なりまた鮮やかであるがゆえに、彼はこの小説内で述べられる「外套」と「軍用外套」が同一のものを指すということがなかなか理解できないのです。
「かぼちゃ」と「なんきん」と「とうなす」が全く別のものとして知覚されてしまう、とでも申しましょうか。
これはあくまで余計な推測ですが、音素が少ないがゆえに同音異義語が多いような言語(たとえば日本語)なんて、彼にとっては悪夢でしょうね……
なんかややこしい話を聞いちゃったけど、図にまとめてみたらあらびっくり、とてもわかりやすくなっちゃったってな経験、皆さんにもあると思うのですが、シィーの場合は逆に、図にまとめるような方法、直感像を操作するような方略以外で問題に対処することは困難です。何を見聞きしてもなにかのイメージが必ず伴い、またそれから「意味」を分離させることが、はなはだ困難であるが故に。
さらにさらに。
彼の保持しているイメージ、直感像がリアルかつ強固であるがゆえに、過去の記憶が現在の認知に干渉してくる。それどころか、リアルかつ強固であるがゆえに、現在見聞きしている物事に過去の記憶やイメージが匹敵してしまう。
また、性質の悪いことに、彼はイメージをただ保持するだけでなく、それを操作することにも長けているのです。
言い換えると、現実とイメージが、文字どおりの意味で区別できなくなる。
字面だけ読むと、最近の若者叩きの文脈ででてきそうな言葉でありますな。「最近の若者はゲームにばかり夢中で、ゲームと現実の区別がつかない」とかね。
ちゃんちゃらおかしいって話ですよ。本物はこんなにも壮絶なんです。178ページより引用します。
「……私が子どものとき、このようなことがありました。私は……通学していました。もう朝です……起きなければなりません。時計に目を向けます。……いいや、まだ時間がある……横になっていられる……そして私は、ずっと時計の針を見つづける……時計は七時半を示している。……つまり、まだ早い。と、突然、母が『まだ出かけないの、もうすぐ九時になるのに』……さあ、どうして、九時だということがわかろうか? だって、大きな針が下に見える……時計は七時半だもの……」。
彼には七時半の時計の方が「見えた」のです。
それどころか、後のページでは、彼がイメージの中の『彼』に登校させ、『私』は家に残り、それで問題は解決したと満足したことまで語られています。
さらに読み進めていくことで、私などは背筋が寒くなってしかたなかったのですが……まあ、引用をこれ以上増やすのも野暮ですので、止めておきます。
実際に見たものしか信じられないのか、とか、もっと現実を見ろ、とか。まあ、五感や現実・事実に関する手垢にまみれた表現というのは、腐るほどあるのでしょうが。
その「感覚」とか「現実」とかいう代物が、如何に危うい物であるか。
ほんのちょっと入力や保持の仕方を変えただけで、なんと変わってしまうことか。
私たちが進化してきた上でたまたま採用した「やり方」に如何に依存したものであるか。
頭を鈍器で殴られるような一冊でしたですよ、ええ。