よりぬき万来堂日記(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからと試しに作ったブログ。ひとまず、過去に書いたエントリをボツボツと再掲してみます。いわば「よりぬき万来堂さん」。あと、コメント欄は現状だと閉鎖できないようだから残しておりますが、一切返答いたしませんのでご勘弁ください

2011-12-03

「閲覧権」という言葉で角川氏が指し示したかったものはどちらだ?

2007年12月13日に万来堂日記2ndに投稿したエントリの再掲です。
その後の流れを見ていると、結局「ビジネスモデル」の話だったっぽいねぇ。

http://d.hatena.ne.jp/banraidou/20071213/1197521660









ネット配信で「広く薄くあまねく」徴収する“閲覧権”創設を

「YouTubeは世界共通語」――角川会長の考える“次の著作権” (1/2) - ITmedia News


上記の報道で角川氏が「閲覧権」なるものをぶち上げてから数日たった。
自分なりに現時点でのまとめをしてみようと思うのだけれど、数日たった頭で考えてみるに、いまだにやっぱり良くわからない。
角川氏は、「購入ベース・ダウンロードベースではなく、視聴するたびに料金を徴収する」というビジネスモデルの話をしたかったのだろうか?
それとも、いわばコンテンツ製作者のベーシックインカムみたいな、インフラ的なものの話をしたかったのだろうか?
それともひょっとして、両者を混同しているのであろうか?


INTERNET Watchの報道では、角川氏から下記のような発言があったと報道されている。

インターネット上で完全な著作権管理が可能になれば、ダウンロードやストリーミング配信時に適用する“閲覧権”を作るべき。これによって、映画館に足を運んだり、DVDパッケージを購入するには至らないライトユーザーにも、コンテンツを利用してもらえる。

また、ITmediaの報道でも、閲覧権の前提として、このような記述がなされている。

YouTubeなど動画投稿サイトは、著作権を侵害した動画を排除する技術の開発を続けており、角川もそれをサポートしている。「権利者がYouTubeに文句を言い、それによってYouTubeが“知恵を付けている”段階。近い将来、技術革新が著作権の完全管理を可能にする」

ここから見えてくるのは、著作権の完全な管理が、角川氏言うところの「閲覧権」の絶対条件であるということだ。

「超流通」をやりたいだけ - オンライン漂流記

さて、上記のブログでid:Sigmaさんが、ITmediaの報道で出てきた「超流通」という言葉に注目した解釈をされている。いや、勉強になるよね。曰く

結局、データを利用した分だけ支払う従量課金制度なのよね。

なるほど、それならDRMが今より発達することが前提だというのも納得がいく。
また、上記ITmediaの報道から引用した部分を読んでみると、ここで言うところの「著作権の完全管理」とは、Youtube内における著作権の完全管理のことを指すのだと解釈できないだろうか?
そうすると話が非常にすっきりする。
現在、Youtubeニコニコ動画が問題とされているが、DRMが今より発達し、Youtubeニコニコ動画、またそれに類するサービスにおいて、どの動画がどの著作物を利用しておりどのくらい閲覧されているかわかりやすくなったとする。いわば限定されたサイト内での完全管理だ。そうすると、そこに閲覧ベースでの従量課金という道が開ける。閲覧者が直接払う形になるのか、それとも会費みたいな形になるのかはわからんけど。
「ちょっとみたいだけならこちらを利用していただいて結構ですよ。単価もお安くなってます」みたいな感じが売りになるのかな?
さらに言うと、二次利用についてもそれをやりたいんじゃないかな、と。楽曲についてはニコニコ動画JASRACが包括契約を結ぶなんて話もでたばかり。動画についてもそれをやりたい、ということじゃないのかな。で、そのためにはDRMが今より発達しなければ、と。
目指すべきビジネスモデルとしては大いにアリだと思うが、ひとつ困惑させられる点がある。
既に各所で指摘されていることであるけれども……
このビジョンの実現には、新たな権利なんてなーんにも必要ないのだ。わはははは!!
角川氏が指し示したかったのが、この超流通による従量課金というビジネスモデルだった場合、閲覧権云々というのはいってみれば口を滑らせただけ。著作権万能主義のようなものに毒された結果であって、実体のないものってなことになる。



一方で、別の解釈というのもなされている。例えば、私が閲覧権の報道の直後に書いたエントリ(こちら)についたブックマークコメントでは、id:cedさんからこのような指摘が。

ced 著作権 これって、Fisherがずっと前に"Promises to Keep"で提案したAdministrative Compensation Systemと同じ考え方なんだよね。実はこれが一番合理的なケースも考えられるんだか、どうなんろうな。

参考:フィッシャーマンズ・スープレックス
違う。
というわけで、フィッシャーってなんじゃらほいと思っていたら、待ってましたの報道が。
「隠す権利」から「広める制度」へ 変化が求められる著作権のあり方
この中で、おなじみの白田総統が解説してくれているような気がするよ。

白田氏は、ハーバード大学のウィリアム・フィッシャー教授の説に言及しながら、「ある国の経済規模全体に占めるコンテンツ産業の規模は、おおよそ決まっており推計可能だ。その推計をもとに、税あるいは課徴金として国民が毎年一定額を支出することにより、国民がコンテンツ産業全体を買い上げることができる」と説明する。

 課徴金制度では、ユーザーが納める額は一定で、徴収の段階で誰が何をどのように閲覧したかは問題にならない。これによりユーザーのプライバシーを維持し、「お金を払っていない人にはコンテンツにアクセスさせない」という、本質的には困難であり、取引費用の大きな所有権的アプローチをとる現在の著作権制度とは別のあり方が出てくる、と白田氏は話す。

ただ、これを「閲覧権」という形で実現させることについては、白田氏は批判的なようである。また、閲覧権とはアクセス権と同義であると喝破し、アクセス権の創設自体には反対ではないid:bn2islanderさんも、この動きは拙速であると評価しているようだ。

閲覧権という言葉の重み - memorandum

白田氏とbn2islanderさんの双方とも、閲覧自体に安易に権利を認めることの危険性、及び、類似のシステムを構築するには著作権の枠組みの解体再構築が必要になるという点で、意見が一致している。
また、こちらもおなじみ小寺信良氏は、コンテンツ産業やクリエイターを支えるインフラ構築という目的の方に目を向けて、別の代案を提出している。

閲覧権とは違うアイデア - コデラノブログ 3

ただこのアイデアだけ借りて、現状の補償金制度を根本から解体し、広く薄く徴収したお金で縁の下のクリエイターの生活保障や、若手クリエイターの育成資金として再設計するという話にしてしまったらいいのではないか。つまり、これまでの補償金のように記録メディア側から徴収するのではなく、複製可能な形態で配布されるコンテンツ側から広く薄く徴収するというモデルである。

これならば、DRMをかけて複製不可にしてあるコンテンツからは、お金が徴収できないというロジックになる。そうするとコンテンツ配布は必然的に、コピーフリーあるいはコピー前提の緩いDRMへと転換せざるを得なくなるだろう。さらにこれまで難題であった、DRMと補償のバランス問題も解決する。

ただ、このアイデアだとウェブ上での利用を活発化するにはちょっと難があるような気もするけれど。
ともかくも、インフラの構築手段としての「閲覧権」では、その危険性が指摘され、白田氏や小寺氏といった人たちから代案が出されている、といったところが現状である。


で、角川氏が指し示したかったのはビジネスモデルのほうなのか、インフラ構築の方なのか?
それがわからないのである。
超流通という言葉にこだわっている以上前者だと思うのだけれど、その一方で

「最もいけないことは、著作者がコンテンツの創作意欲をなくすこと」として、国民の合意の上で料金を徴収し、クリエイターに次の作品を創作するためのインセンティブを与えるべきだとした。

なんていう記述もあったりするのである(引用はINTERNET Watchの報道より)。また、超流通と著作権における新たな権利の創設は本質的に無関係であるのに、これほど著作権にこだわっているというのも、それはそれで不自然なのだ。
どっちなんだ?
もしかしたら、両方の問題を混同しているのか?
それとも、一挙両得を狙っているのか?(そうだとしたら、それは失敗だと思う)
わからん。

2011-12-03

「時砂の王」は、新しい小川一水の幕開けであるかもしれない

2007年11月8日に万来堂日記2ndに投稿したエントリの再掲です。
2011年現在、小川一水氏は天冥の標シリーズで、いい意味で読者の期待を裏切り続けているわけで、早くこの間買った5巻を読まなきゃ。

http://d.hatena.ne.jp/banraidou/20071108/1194491903








中々時間が取れなかったのだけれど、読み始めたら一気に読了。
このような傑作が単行本ではなく文庫書き下ろしで刊行されるとは、なんとも贅沢な時代になったものだ。


小川一水がこれまで発表してきた作品は、どれも高品質のものであったことは言うまでも無い。
確かに十二分に楽しんで読んできたのだけれど、その一方、ささやかな不満があったのだ。


それは、作品のほとんどがハッピーエンドだったことである。
ハッピーエンドで何が悪い? いや、もちろん何が悪いわけではない。元々のソースがちょっと今探せないのだけれど、小川一水自身が、バッドエンドで名高い笹本祐一妖精作戦」への反感というものに大きな影響を受けていると語っている。ならば、ハッピーエンドにこだわるというのも頷ける。
しかしだ、これを読んでいる人は、頭の中に私家版10選を思い描いていただきたい。ジャンルは何でもいいし、ノンジャンルでもいい。出来れば小説でよろしく。まあ、映画でもいいか。
その中に、ハッピーエンドのものがいくつあった?


少し前、はてなで「私家版10大○○」が流行していた頃に、私もそれに乗っかって10大SFを選んでみた(こちら)。この中でハッピーエンドのものは? まあ「ノーストリリア」がそうと言えなくも無い。また、短編集である「ふたりジャネット」の中には心温まる読後感のものも多い。が、そのくらいだ。
もちろん、秀逸なハッピーエンドに心振るわせる。そのことに文句をつけることなど、する気もなければ出来るわけも無い。そういった終わり方を賞賛することもまたしかり。
ただ、世の中ハッピーエンドばかりではない。バッドエンドばかりでもない。実のところそれはものすごく多様で、ハッピーかバッドかなどという恣意的な二分法にやすやすと収まるわけでもない。そして実際、そのような二分法に収めることの出来ない物語が多く創造されてきている。さて、あなたの10大○○にハッピーエンドはいくつありましたか? バッドエンドはいくつ? そして、そう簡単ではないものはいくつありましたか?


過去の小川一水作品をすべて読んでいるわけではないのだけれど(いや、申し訳ない)、短編集「老ヴォールの惑星」に収録されている星雲賞受賞作「漂った男」は傑作である。そして私が読んだ限りでは、著者が初めてハッピーエンド/バッドエンドの二項対立から脱却した作品であった。

そしてとうとう、長編でもそれを果たして見せたのが、この「時砂の王」だ。
作者初の時間SFと銘打たれたこの作品には、ワイドスクリーンバロック並みの途方も無いスケール感がある。読み手を幻惑しクラクラさせるガジェットがある。過去のSF作品へのオマージュがある*1。人間くさい葛藤がある。日本SFが培ってきた伝統がある(作品に流れる無常観は、私に小松左京「果しなき流れの果に」や山田正紀「神狩り」といった作品を連想させずにおかないのだ)。大長編やシリーズに匹敵する内容をわずか270ページほどで語ってみせた、とんでもない密度がある。
しかしそれよりもなによりも、私にとっては小川一水の新たな姿が、ここにあるのだ。
これは語り継がれていく価値のある、いや、語り継いでいくだけの価値があるSF小説だ。まずは手にとって欲しい。読んで楽しんで欲しい。そして、この日本SFが生んだ傑作を語り継いでいこうじゃありませんか。


参考:『時砂の王』(小川一水/ハヤカワ文庫) - 三軒茶屋 別館

2011-12-03

グールド「神と科学は共存できるか?」……本当、グールドとドーキンスは仲良く出来ないね(笑)

2007年11月16日に万来堂日記2ndに投稿したエントリの再掲です。
http://d.hatena.ne.jp/banraidou/20071116/1195171404






グールドの「神と科学は共存できるか?」を読了した。そう、今年話題となった本、ドーキンスの「神は妄想である」の中で、えらく批判されていたあの本だ。
しかし、グールドとドーキンスは仲良くできないね。グールドが亡くなった後でさえこれだものな(笑)。仲良くケンカしなってか。
ドーキンスの本はいってみれば「無神論者のススメ」であった。ドーキンスの本はグールドが亡くなった後の刊行であるから、グールドが「神は妄想である」を批判しえるわけはないのだけれども、いや、健在だったなら間違いなく批判しただろうな。本当、一見、利己的遺伝子説と断続平衡進化説が相容れないものに見えるのと同様、宗教に対するドーキンスとグールドそれぞれの態度は相容れないもののように見える。
しかし、よくよく考えてみると利己的遺伝子説と断続平衡進化説は別に相容れない理論ではないのと同様に、宗教に対するドーキンスとグールドそれぞれの態度も相容れないものではない。
本当、二人がもっと仲良くするところから始めればよかったのに。と、これは後述するけれど、もうちょっとでそうなりそうだったんだよな、実際。


ドーキンスは「神は妄想である」の中で、一神教、もっとぶっちゃけるとキリスト教、もっともっとぶっちゃけると原理主義とか創造論とかID理論とかをけちょんけちょんに批判した。いや、原理主義とか教条主義とか創造論とかID理論とかを斬って捨てる行きがけの駄賃で、一神教そのものも斬って捨てたような、えらく攻撃的な著作だ。
対して、グールドの主張はもっと穏やかで、妥当で、言葉にすると実につまらない。要するに「科学と宗教はお互いに縄張りが違うんだからさ、お互いに縄張りは尊重してうまくやっていこうよ」というものだ。ほら、つまんないでしょ?


本書における科学と宗教の関係を、グールドに敬意を評して野球に喩える*1と、それは精神論と科学的トレーニングの違いのようなものだ。思い込んだら試練の道を、行くが憎いぜド根性ガエル。タイヤを引きずったり、うさぎ跳びしまくったり、練習中は水を飲まなかったり。嗚呼、なんとも厳しくも美しい精神論の世界よ。血の汗を流したら色々まずいが死ななければOKだ。
いや、待った。そんな非科学的な! うさぎ跳びは膝を痛めるし、練習中でも少しずつ水分は取ったほうがいいし。同じ労力なら、もっと効率よくやらないと。過ぎたるは及ばざるが如しってね。
うん、正にその通り。では、現代では精神論など全く無価値ですか? いやいや、そんなわけはない。貪欲に新たなトレーニング法を開拓したりするのには精神論的なものが伴うだろうし、そもそもがトレーニングに励むこと自体に精神論的な裏づけが必要な時だって多いだろう。
つまるところ両方ともが必要なのだ。科学と宗教もまたしかり。


このつまらない主張を、グールドは論じていく。過去の聖職者、過去の科学者がいかに縄張りの不可侵について自覚的であったかを賞賛してみたり、逆に宗教が科学の縄張りを侵犯した例、逆に科学が宗教の縄張りを侵犯した例を挙げて批判したり(そう、本書の矛先は宗教だけではなく科学者にも向いている)。ヴァチカンにおける進化の扱いの変遷の検証や、いかにして「中世では地球は平らだと信じられていた」という「伝説」が生まれたかの検証などは、科学史にも造詣が深いグールドの独壇場である。


さて、グールドのことをよく知らないといった向きには、この穏健な主張はなんとも腰の引けたものに見えるかもしれない。ドーキンスのグールドへの批判も正にその点であった。
いやいや、ちょっと待っていただきたい。片やドーキンスはイギリス人だ。片やグールドはアメリカ人。そう、創造主義の本場、アメリカで最も著名な進化論者なのである。創造主義との戦いにおいて、彼ほど最前線に位置してきた人物というのも、そうそういないだろう。実際、本書でも公立学校で進化論を教えることに関する裁判での体験が記されている。そして大事なことだが、科学教育の場に(まさに縄張りを踏み荒らして)入り込んできた創造論を駆逐するために立ち上がった誇り高き人たちの中に、多くの宗教関係者たちもいたことを強調している。そして、この言葉にいたるのだ。159ページより引用しよう。

敵は宗教ではなく、教条主義と不寛容である――人類と同じくらいに古く、永続的に警戒することなしには廃絶することができない伝統である。


そう、グールドは「科学 対 宗教」というわかりやすいラベルを剥してみせた。彼の敵には、そんなわかりやすい名札はついていないのだ。時に、グールドは科学者をも舌鋒鋭く批判する……彼のエッセイ集のなかで最も攻撃的なもののひとつに、IQを元にアメリカへの移民を選抜しようとしたという歴史事実についてのものがある。IQという尺度の妥当性の問題もあろうし、移民に対して英語でテストを実施するという手法上の見過ごしがたい不備もあろう。しかしなにより、科学が、事実の探求と記述という自らの縄張りを踏み越えて、よりよきものを判断しようという領域侵犯を犯してしまったのだ。グールドが怒らないわけがない。え? その手の誤りは科学の本質的な部分ではないって? もちろん、その通り。では、十字軍の遠征や9.11やイラクへの侵攻は宗教の本質的な部分だろうか? アメリカの公教育を守るために多くの宗教関係者が名を連ねたというのに? 現在では進化論も地動説もガリレオの裁判が不当であったことも、ヴァチカンが認めているというのに? 多くの人が口をそろえて非難する、その非道で非合理な振る舞いは、本当に宗教のエッセンスなのだろうか?
グールドはノーといい、ドーキンスはイエスというだろう。しかし奇妙なことに、二人とも攻撃する相手は同じなのだ。相手を見つける筋道やその呼び方は異なっていても、その指し示すものはひとつなのである。
そこに、二人が協力できる余地がある。力の入った訳者解説でも触れられているように、それは実現直前であった。ID理論の一派へ共同で公開書簡を送る直前まで来ていたのだ! しかし、グールドは他界してしまった。
グールドの方向性にドーキンスの攻撃性が加わったなら、向かうところ敵なしであっただろう。進化論ではお互いを賞賛はしつつも最後まで手を携えることのなかった二人が、手を携えたかもしれなかったのだ。
これが大きな、あまりにも大きな可能性の損失である。という悲しい気分で、この文章はおしまい。

2011-12-02

ベンジャミン伊東はあと一年を待たずに沈没する

2007年11月24日に万来堂日記2ndに投稿したエントリの再掲です。

http://d.hatena.ne.jp/banraidou/20071124/1195882845







ブログに書くネタをメモしておくことがある。で、忙しくて余裕がないときはメモしたこと自体を忘れたり、後で読み返してもなんでこんなことをメモしたのかわからなかったりする。
メモされた、謎の人名「ベンジャミン伊東」。
なんのこっちゃさっぱり思い出せないまま放置していたのだが、昨日、何を書こうとしていたか思い出したので、書いておこうと思う。


少し前の話になるが。
[asin:4091815081:detail]
一色版「日本沈没」がかなり好きである。8巻も発売後、すぐに購入し、堪能した。
8巻では、阿蘇山が噴火し、火の国が炎に襲われる。
時の首相が熊本城に立てこもり、「これから阿蘇山は噴火する。阿蘇山噴火が的中したら、日本が沈没することを信じて欲しい」と、滑稽さを感じさせる過度の真剣さをもって全国民に訴える。
そして、訪れる噴火の時。
首相はこの災害での自らの死を願いながら、城の周りを駆け回る。有名な童歌「あんたがたどこさ」を歌いながら。
首相の歌う「あんたがたどこさ」にあわせて、大量の人間が死んでいく。
これはすごいと思った。迫力たっぷりだというのに実に滑稽。この災害とそれをめぐる政治的駆け引きを喜劇として描写するには、これ以上ない演出だと思う。
一番のハイライト、底意地の悪いユーモア感覚がでたシーンは、街中を右往左往する熊本市民が描写されるシーンだ。
「よいよいよいよい/おっとっとっと」というおなじみのフレーズに合わせた形で、熊本市民が右へ左へと翻弄される様は踊っているかのようだ。しかし、彼ら/彼女らは、首相の言葉を聴いても何もしなかったが故に、何も出来ずに死んでいくのだ。なんとおぞましく、滑稽で、素晴らしい。


ところで、「よいよいよいよい/おっとっとっと」は、「あんたがたどこさ」の歌詞ではなく、それをもじった「電線音頭」の歌詞ではなかったか?
検索して歌詞を調べてみたのだが、やはり元の「あんたがたどこさ」にはそのような歌詞はないようだ。
おお、なんと! この世にはやはり神などいないのだろうか、何もしなかったが故に何も出来ずに死んでいく市民たちは、よりにもよってベンジャミン伊東に合わせて踊りながら死んでいくのだ! 素晴らしい!
熊本の空を東へ向けて飛んでいくしらけ鳥が目に浮かぶ!


ところで、検索している最中に知ったのだが、電線音頭が流行した年は76年、最初の映画「日本沈没」が公開されたのは73年だそうだ。
当時少年時代をすごした人は、両方をリアルタイムで記憶しているわけで、とすると、これは時代へのオマージュでもあったのかななどと、一人納得する。

2011-12-02

21世紀ダーウィン――柳広司「はじまりの島」における現代的なダーウィン

2007年10月11日に万来堂日記2ndに投稿したエントリの再掲です。


http://d.hatena.ne.jp/banraidou/20071011/1192082113










2連続公休の前日に期せずして体調を崩してしまい、予期せぬ三連休となった。二日目には体調もだいぶ回復したのだが、出かけるのもなにか悪い気がしたため、読書三昧である。
柳広司の連作短編集「百万のマルコ」(創元推理文庫)が軽妙洒脱で面白かったので、同じく創元推理文庫から出ている同じ作者の長編「はじまりの島」も読んでみた。うん。面白い。



あの有名なビーグル号の航海。この航海における知見が後の「種の起源」の発表に大きな影響を与えたとされていることは周知の通りだが、その際、史実としては残されていない殺人事件があった、というのが本書のストーリーである。もちろん、探偵役は若き日のチャールズ・ダーウィンだ。
私はミステリに詳しいとはいえないので、本書が「孤島」を舞台にした本格ミステリでどのような位置を占めるだとか、トリックはどの系譜に連なるだとか、事件解決に読者を誘う作者の手際だとかについては語る言葉を持たない。
ただ、チャールズ・ダーウィンについては、ちょっと興味がある。


「はじまりの島」はなんといってもフィクションであり、ノンフィクションではない。ま、当たり前だが。
作者は、本書が現代の読者に充分に楽しめるように、ところどころで歴史に改変を加え、細心の注意を払っている。
そのひとつが、ダーウィンの描き方だ。本書では、ダーウィンは科学的な洞察に富んだ好感の持てる若者として描かれている。現代の私たちからみてもそう感じられるように描かれているのだ。
そのため、ダーウィンが当時は持っていなかった考えをも、ダーウィンの口から語らせている。
つまり、ダーウィンの持つ科学観・世界観というのを、21世紀流にアレンジしているのだな。私たちから見ても「この人は探偵役にふさわしい知性を備えた人物だ」と違和感なく受け入れられるように。

例えば「自然淘汰」。
当時、進化という考え自体は既に前例のあるものだった。「種の起源」は確かに画期的な考えを示したものではあったけれども、それすら巨人の肩の上から世界を眺めたものであったわけだ。祖父のエラズマス・ダーウィンも進化論を展開していたし、同時代にラマルクだっていたわけだよ。
チャールズ・ダーウィンが進化を推し進めるメカニズムとして自然淘汰を考え始めたのはビーグル号の航海が終わった後だ。
ガラパゴス島と進化論というとダーウィンフィンチが有名だが、ガラパゴス島滞在中、ダーウィンはダーウィンフィンチに特別な関心を持っているというわけでもなかった。むしろ、帰国後にその重要性に思い至り、標本をそろえるために共に旅した船員たちの協力を仰いだというのは有名な話だ。
しかし、「自然淘汰」なんて今じゃ常識である。それを世界で初めて論じたダーウィンだからこそ探偵にふさわしいのである。
であるから、本書におけるダーウィンはこんな発言をしている(以下、引用は創元推理文庫版から)。

「この群島のフィンチたちときたら、まったく興味深い存在でしてね」(中略)「問題は嘴です。彼らの嘴の形の多様さときたら、実際に観察するまでは、とても信じられないほどでした。(中略)わたしは、もしかすると、これこそが生物の神秘中の神秘を解く鍵なのではないかと思っているのです……」
(89-90ページ)


また、実際にはガラパゴス島滞在中のダーウィンは、ダーウィンフィンチの重要性にも思い至っていなかったので、当然ながら自然淘汰というメカニズムにも思い至っていなかったわけだが


「進化(エヴォリューション)は進歩(プログレス)とは全然別ものです。(中略)いかなる生き物も、彼らなりに充分に進化しているのであって、そこにはどんな差異も存在しないのです。ところがわたしたちは、すぐにそのことを忘れて、容易に原因と結果を取り違えてしまう……
(141ページ。実際にはカッコ内はルビ、強調部は傍点で表記されている)

という風に、現在でも良く見かける間違いにも警鐘を鳴らすのだ。


さて、現代の私たちにとっての科学的な常識とは、なにも進化論に限ったことではない。その他にも科学的常識はたくさんある。
であるから、本書でのダーウィンは生物学以外にも、科学の分野における卓見を披露してくれる。

もしかするとたった一度の蝶の羽ばたきが、嵐を招くかもしれない……
(225ページ)

なんとびっくりバタフライエフェクトである。カオスだよ、全員集合。
バタフライ効果 - Wikipedia
Wikipediaによるとこの言葉の元になった講演は1972年に行われたとのこと。本来なら、ダーウィンは知っているはずがない事柄である。
また(これは多岐にわたるので引用はしないが)フエゴ・インディアンとイギリスとの比較について語る探偵ダーウィンは、レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」を先取りしたかのようだ。「悲しき熱帯」が発表されたのは1955年のことである。
他にもこんなのが。

いえ、もしかするとこの大地は、わたしたちには感知できないほどゆっくりとしたスピードでいまも動いているかもしれない。遠い昔、海が塞がり、大陸はひとつであったかもしれないのです……
(191-192ページ)

プレート・テクトニクスですよ。日本は一気呵成に沈んでいくんだ!


かように、本書におけるダーウィンは、実際の本人にはわかるはずも無かった科学知識を携えて、現代的な知性溢れる人物として構成しなおされている。


で、結末に至るまでは「ああ、これは作者による工夫なのだな。現代でも通用する探偵を作り出すためなのだな」と思って読んでいたのだけれども、結末にいたり、その印象は少しだけ変わった。
カオス理論やプレート・テクトニクスはともかくとして、「ダーウィンはガラパゴス島を訪れる以前に、既に自らの進化論を完成させていた(もしくは完成に近づいていた)」という設定は、探偵の造形上の工夫のみならず、ストーリーの根幹に関わるものであったのだな。そうでなければ、本書のストーリーは成立し得ない。
これは思い切った騙りだ。歴史とは異なっていることが前提のストーリーなのだな。本書は「歴史上ありえたかもしれないフィクション」ではなく「歴史上絶対ありえないフィクション」なのだ。
すっごいよねー。

2011-12-02

違法コンテンツダウンロード違法化と、ダウンロードそのものの忌避について

2007年10月1日に万来堂日記2ndに投稿したエントリの再掲です。
これに非親告罪化が加われば「鬼に金棒」ですな。誰が鬼になるかは知らんが。

http://d.hatena.ne.jp/banraidou/20071001/1191201687








違法コンテンツダウンロード違法化について少しだけ。
いや、つくづく、「これって輸入盤騒動のときとそっくりだなー」と思うんだけれど。
どういうとこがそっくりだと思うかというと、権利の創設を主張する側の狙いとは異なる副作用がでて、むしろその副作用の方が問題となるって構図が、もう生き別れの双子くらいそっくり。


輸入盤騒動ことCD輸入権のときの権利者側の狙いは「アジアでのライセンス拡大」だった。
「これからアジアで、そりゃもうバンバンCD売っていこうと思うんですけど、向こうで作った格安のCDが入ってくるとさすがに都合悪いんで、輸入禁止できるようにしてくんないすかねぇ?」というわけ*1
で、その法案の文章が通常の輸入盤も規制できてしまうような代物だったため大騒ぎになった。これが副作用。
今のところ、逆輸入盤以外で輸入権が行使されたという例は無かったように思う。まあ、当初の狙い通りの運用がなされているといって良いだろう。
ただし、相変わらず通常の輸入盤も止めようと思えば止めることができる状態のままであるということも、決して忘れてはならない。


さて、今回の違法コンテンツのダウンロード違法化ではどうだろうか。
既にYoutubeニコニコ動画への影響が出るのではないかという懸念がそこかしこから噴出している。
ただ、文化庁が言うにはストリーミングは対象外だそうだ。つまり、Youtubeニコニコ動画の規制というのは、この案の狙いではないということだろう。つまり、また副作用が大きな問題となっているわけだ。
もちろん、まだ文章として法案が上がっていない状態であるわけなので、Youtubeニコニコ動画といったサービスへ適用し得ない、狙い通りの見事な仕上がりとなるのか、それとも輸入盤騒動の時のように、適用しようと思えばいくらでも適用できてしまうグタグダな玉虫色の仕上がりとなるのかはわからない。すぐに反応できるように注意しておいた方が良いだろうなと思う。
ただ、輸入盤騒動の時の悪い実績があるわけだから、そりゃあもう考えは悪い方に悪い方に向かってしまうわけだけれどもね。


で、副作用は上述したとおりなわけだけれども、では、この改正の狙いは何なのだろうか?
ここからは推測、妄想万歳な内容となるので、眉に唾して読まれたし。


まず、キャンペーンが始まる。今映画館でやっているような奴。
「違法ダウンロードは犯罪です」とか「私たちの音楽を守りたい」とか、きっとそんな感じの奴。
で、多分何件か民事訴訟が起きる。アメリカみたいな規模でやるかどうかはともかく(ま、あそこまでやんないんじゃないかなとは思うんだけれど)、今でも時折耳に入る、P2Pでの逮捕とか、そういった感じで。違法にアップされたコンテンツを違法と承知の上でダウンロードしたユーザーが、何人かみせしめのように訴えられる。
その結果どうなるかというと、ネットで音楽等のコンテンツをダウンロードするという行為そのものへの忌避感が醸成されるのではないかな、それこそが狙いなのではないかな、と、こう思うのだ。


なぜ、忌避感の醸成なんていうわけわからんことをするのか。
今、CDが売れてなくて、そのかわりネットでの配信が伸びているという流れなのは、皆様ご存知の通り。
ここで「CDが売れないのは配信が伸びているからだ」という推測をしてしまうと、「じゃあ、配信の伸びを抑えればCDにお客さんは戻ってくるんだ。いやっほう! パッケージ商売復活! バブルの夢よカムアゲイン!」ってな結論になってしまう。
……でね、どうもそんな結論を出しちゃってるんじゃないかなって気がして仕方が無いのよ。
レコード会社不信にも程がある、かねぇ?

2011-12-02

知的障害と、ぞっとしたことと、ほっとしたこと

2007年9月2日に万来堂日記2ndに投稿したエントリの再掲です。
http://d.hatena.ne.jp/banraidou/20070902/1188698141







小売業や接客業している人はわかると思うのだけれど、店にお客さんとして知的障害っぽい人や統合失調っぽい人が来るのって、別に珍しいことではない。
こちらも何か特別な対応をするわけでもないし。
他のお客さんの迷惑になるようなことをされたら、そりゃ困るが、そういった人が特に迷惑なことをすることが多いというわけでもないし。正直、本を座り読みする人や酔っ払いの方が余程迷惑だし。
悪い言い方かもしれないが、店の側からしてみると、なんてことはないのだ。


今日もそういった感じのそういった感じのお客さんが来た。検査もせずにパッと見で、その人が知的障害者なのか、統合失調なのか、はたまた全然別の何かなのか見分ける自信はまったく無いので、まぁ、「そういった人」だ*1
私に某コミックはどこにあるか聞いてきたので案内した。
そのお客さんはまるで誰かと会話しているかのように、一人でコミックの話をずっとしていた。曰く、ドラマと全然違うとか、これは面白いとか。
一人で誰かと会話している風ってのは、まあ、変わってるといえば変わっているが、別段声が大きいわけでもないし(本当、普通に誰かと会話しているような大きさだった)、他のお客さんに話しかけるでもないし。まあ、なんてことはない。
そのお客さんは、しばらくコミックを見た後、ニコニコしながら帰っていった。
するとだ、別の、中学生くらいの子供をつれたお客さんが、その後姿を指差して「誰としゃべってるんだ」という。
なんとこたえたものかとちょっと考え「まあ、色んな方がいらっしゃいますんで」と応えた。
すると私の方を向いてこういうのだ。
「電波?」
知らんがな、そんなん。
「さあ、わかりかねますが」
そして次にこんなご要望をいただいた。



「あの人が二度と店に来ないようにしてください」



さすがにこれにはなんと返したらいいか、全く思いつかず、曖昧な笑顔でその場は乗り切ったんだが。
独身の私がこんなこと言っても説得力無いんだが、自分の子供の目の前で言うべき台詞ではないように思った。



これが真昼間のこと。
夕方、夜の勤務に入るアルバイトたちに、こんなことがあったと話をして聞かせた(まあ、あまりいいことじゃない気もするが、どうしても話しておきたかったのだ)。
アルバイト君たちは、私の言いたいことをわかってくれたようだ。これまた良いことじゃないんだが、中には怒りの声をあげるものもいた。


いや、正直ほっとしたなぁ。


繰り返しになるが、今日の、まあそういった風なお客さんは、風変わりではあったが、特に迷惑ということは無かった。
もっと迷惑なお客さんはいくらでもいる。もっと大声の人も、通路に座る人も、シュリンクを破る人も、通路をふさぐ人も、立ち読みした本をそこら辺に放り投げていく人も。
なんてことはない。あのお客さんは確かに普通ではなかったが、それだけの話だ。
当たり前のことではあるんだけれど、「普通ではない」だけで、そのお客さんを不快に思ったり、迷惑に思ったりするようなスタッフにはなってほしくないからね。これはウチの店だけでというんじゃなくて、将来どんな職場に行っても、どんな環境に暮らしても、同じことだと思うし。
本当にほっとした。



ついでながら、親子連れのお客さんだが、息子さんが親父さんをたしなめていた。その直前に私が言った台詞で。「色々な人がいるんだから」と。
うん、やっぱり年齢って関係ないね。