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万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

44歳の笑福亭松喬師「帯久」と60歳の笑福亭松喬師「帯久」を聞き比べるなど

先日、「笑福亭松喬ひとり舞台ファイナル」で、松喬さんの「帯久」を聞きました。大変にいい高座で。
その会場の物販にて松喬さんのCDも売っていたものですから、「帯久」が収録されたものと、ついでに「百年目」が収録されたものも購入しました。んで、今日の残業中に聞いてみたのです。まくらでも仰っているのですが、CDに収録された高座は44歳の時のもの。松喬さんは還暦ですので、44歳の時の高座と60歳現在の高座を聞き比べる機会に恵まれたわけです。
面白いもので、基本は同じ話なのですが、「いいなぁ……」と感じる部分が異なっていました。例えるならば、44歳の時の「帯久」」は人物の接写で、60歳現在の「帯久」は遠景であるように感じたのです。



「帯久」という噺を初めて聞いたのは立川志の輔さんのCDです。笑いをふんだんに織り交ぜつつも、落ちぶれた和泉屋与兵衛の情念が、炎のように揺らめいているかのような熱演で、大好きです。
44歳の松喬さんの「帯久」も、志の輔さんと同様、人物の情念・感情を表現することに力点を置いているように感じられました。特に、和泉屋与兵衛ではなく帯屋久七の方。これが実に憎たらしい。筋を知っているのに腹が立って仕方がない。名悪役です。


対して、先日聞いた高座では、そこまで感情の直接的な表現には力点を置いておられなかったように感じます。もちろん、CDなら何回でも繰り返し聞くことが出来ますが、生の高座は一度きりですので、記憶違いや思い込みだったら申し訳ないのですが。
その代わりに強烈に印象に残ったのは、シーンの対比、対称性です。10年前、やりくりが厳しい帯屋久七が和泉屋与兵衛に金を借りに来る場面と、10年後、家族の不幸や火事や病に襲われ落ちぶれてしまった和泉屋与兵衛が帯屋久七に金を借りに来る場面の強烈な明暗です。
例えて言うならば、若いときの高座が、人物を大写しにしたものであるならば、先日の高座は人物をアップにせず、周囲の風景や道具立てを象徴的に利用したもの、というか。接写と遠景の違い、と感じたというのは、このことであります。



この違い、実は小さな、非常に小さな変更から来ているのではないか、と思っています。


10年前、帯屋が和泉屋を尋ねた際には、和泉屋に帯屋の来訪を告げた丁稚の軽口をたしなめ、わざわざ番頭に部屋まで案内させるように指示することで、和泉屋が帯屋に敬意をもって接していることを示しています。和泉屋与兵衛は敷居の向こうで頭を下げる帯屋久七をまずは敷居のこちら側へ招き入れ、嫌がるそぶりも見せず金を貸し、お酒までごちそうして帰すのです。

10年後、和泉屋が帯屋を尋ねた際には、和泉屋を侮辱するような軽口を叩いた丁稚をたしなめるのは番頭で、帯屋本人は居留守を使おうとします。案内するのが番頭であるのは同様ですが、それは帯屋の指示ではなく、むしろ番頭が和泉屋に会うようにと説得したからです。

ここまでは44歳の高座も60歳の高座も同じ。


44歳の高座では、そのまま、和泉屋の願いを帯屋が断る上に侮辱までする場面へと進んでいきます。
60歳の高座では、まず、10年前の帯屋がそうしたのと同じように、和泉屋与兵衛は敷居の向こう側から、帯屋に語りかけます。
そして、帯屋は和泉屋を部屋の中に招き入れようとするそぶりを、一切見せる事がありません。
ここで私は「ハッ」としたのでした。相手に敬意を払う和泉屋与兵衛と、相手に敬意を払うことがない帯屋久七。二人の間には、せいぜい足の小指をぶつける程度の高さしかないはずの部屋の敷居が、ベルリンの壁のように立ちはだかっています。
これを聞いて、私の脳裏に浮かんだのは人物の表情ではなく、その情景でした。病み上がりの老人を、寒々とした廊下から暖かい部屋へ招き入れることなく、そのまま追い返そうとしている人物と、その人物に頭を下げ続ける老人。
聞き手の私が、二人の人物を隔てる「壁」を認識しただけで、こうも同じシーンの捉え方が変わってしまうのか、と。
貴重な体験をしたのだな、と、ありがたく思うのであります。