2連続公休の前日に期せずして体調を崩してしまい、予期せぬ三連休となった。二日目には体調もだいぶ回復したのだが、出かけるのもなにか悪い気がしたため、読書三昧である。
柳広司の連作短編集「百万のマルコ」(創元推理文庫)が軽妙洒脱で面白かったので、同じく創元推理文庫から出ている同じ作者の長編「はじまりの島」も読んでみた。うん。面白い。
あの有名なビーグル号の航海。この航海における知見が後の「種の起源」の発表に大きな影響を与えたとされていることは周知の通りだが、その際、史実としては残されていない殺人事件があった、というのが本書のストーリーである。もちろん、探偵役は若き日のチャールズ・ダーウィンだ。
私はミステリに詳しいとはいえないので、本書が「孤島」を舞台にした本格ミステリでどのような位置を占めるだとか、トリックはどの系譜に連なるだとか、事件解決に読者を誘う作者の手際だとかについては語る言葉を持たない。
ただ、チャールズ・ダーウィンについては、ちょっと興味がある。
「はじまりの島」はなんといってもフィクションであり、ノンフィクションではない。ま、当たり前だが。
作者は、本書が現代の読者に充分に楽しめるように、ところどころで歴史に改変を加え、細心の注意を払っている。
そのひとつが、ダーウィンの描き方だ。本書では、ダーウィンは科学的な洞察に富んだ好感の持てる若者として描かれている。現代の私たちからみてもそう感じられるように描かれているのだ。
そのため、ダーウィンが当時は持っていなかった考えをも、ダーウィンの口から語らせている。
つまり、ダーウィンの持つ科学観・世界観というのを、21世紀流にアレンジしているのだな。私たちから見ても「この人は探偵役にふさわしい知性を備えた人物だ」と違和感なく受け入れられるように。
例えば「自然淘汰」。
当時、進化という考え自体は既に前例のあるものだった。「種の起源」は確かに画期的な考えを示したものではあったけれども、それすら巨人の肩の上から世界を眺めたものであったわけだ。祖父のエラズマス・ダーウィンも進化論を展開していたし、同時代にラマルクだっていたわけだよ。
チャールズ・ダーウィンが進化を推し進めるメカニズムとして自然淘汰を考え始めたのはビーグル号の航海が終わった後だ。
ガラパゴス島と進化論というとダーウィンフィンチが有名だが、ガラパゴス島滞在中、ダーウィンはダーウィンフィンチに特別な関心を持っているというわけでもなかった。むしろ、帰国後にその重要性に思い至り、標本をそろえるために共に旅した船員たちの協力を仰いだというのは有名な話だ。
しかし、「自然淘汰」なんて今じゃ常識である。それを世界で初めて論じたダーウィンだからこそ探偵にふさわしいのである。
であるから、本書におけるダーウィンはこんな発言をしている(以下、引用は創元推理文庫版から)。
「この群島のフィンチたちときたら、まったく興味深い存在でしてね」(中略)「問題は嘴です。彼らの嘴の形の多様さときたら、実際に観察するまでは、とても信じられないほどでした。(中略)わたしは、もしかすると、これこそが生物の神秘中の神秘を解く鍵なのではないかと思っているのです……」
(89-90ページ)
また、実際にはガラパゴス島滞在中のダーウィンは、ダーウィンフィンチの重要性にも思い至っていなかったので、当然ながら自然淘汰というメカニズムにも思い至っていなかったわけだが
「進化(エヴォリューション)は進歩(プログレス)とは全然別ものです。(中略)いかなる生き物も、彼らなりに充分に進化しているのであって、そこにはどんな差異も存在しないのです。ところがわたしたちは、すぐにそのことを忘れて、容易に原因と結果を取り違えてしまう……
(141ページ。実際にはカッコ内はルビ、強調部は傍点で表記されている)
という風に、現在でも良く見かける間違いにも警鐘を鳴らすのだ。
さて、現代の私たちにとっての科学的な常識とは、なにも進化論に限ったことではない。その他にも科学的常識はたくさんある。
であるから、本書でのダーウィンは生物学以外にも、科学の分野における卓見を披露してくれる。
もしかするとたった一度の蝶の羽ばたきが、嵐を招くかもしれない……
(225ページ)
なんとびっくりバタフライエフェクトである。カオスだよ、全員集合。
バタフライ効果 - Wikipedia
Wikipediaによるとこの言葉の元になった講演は1972年に行われたとのこと。本来なら、ダーウィンは知っているはずがない事柄である。
また(これは多岐にわたるので引用はしないが)フエゴ・インディアンとイギリスとの比較について語る探偵ダーウィンは、レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」を先取りしたかのようだ。「悲しき熱帯」が発表されたのは1955年のことである。
他にもこんなのが。
いえ、もしかするとこの大地は、わたしたちには感知できないほどゆっくりとしたスピードでいまも動いているかもしれない。遠い昔、海が塞がり、大陸はひとつであったかもしれないのです……
(191−192ページ)
プレート・テクトニクスですよ。日本は一気呵成に沈んでいくんだ!
かように、本書におけるダーウィンは、実際の本人にはわかるはずも無かった科学知識を携えて、現代的な知性溢れる人物として構成しなおされている。
で、結末に至るまでは「ああ、これは作者による工夫なのだな。現代でも通用する探偵を作り出すためなのだな」と思って読んでいたのだけれども、結末にいたり、その印象は少しだけ変わった。
カオス理論やプレート・テクトニクスはともかくとして、「ダーウィンはガラパゴス島を訪れる以前に、既に自らの進化論を完成させていた(もしくは完成に近づいていた)」という設定は、探偵の造形上の工夫のみならず、ストーリーの根幹に関わるものであったのだな。そうでなければ、本書のストーリーは成立し得ない。
これは思い切った騙りだ。歴史とは異なっていることが前提のストーリーなのだな。本書は「歴史上ありえたかもしれないフィクション」ではなく「歴史上絶対ありえないフィクション」なのだ。
すっごいよねー。