「帰ってきたヒトラー」観ましたよ。これはいい映画です。
終映後、客席からこんな声が。
「これ、コメディちゃう。ホラーや……」
まさしくその通り。期待していたよりも笑え、期待していたよりもずっとややこしく、期待していたよりもずっと怖かった。
「帰ってきたヒトラー」多重構造になっています。
まず一つ目はタイムスリップしてきたヒトラーが繰り広げるコメディ。「あのヒトラーがこんなことするなんて!」という、万人ウケする楽しい部分。
これ、楽しいんだが、よく考えると非常に難しいのですよ。
チャップリンの「独裁者」でもいいし現代日本のザ・ニュースペーパーでもいいですが、この場合は既存権力へのカウンターとして笑いが機能するでしょう。
ところがね、「帰ってきたヒトラー」では、その笑える言動や行動を繰り広げるのが、ヒトラーに扮したコメディアンではなくてヒトラー本人なわけで(もちろん役者がやっているんだけど、「ヒトラー本人」という感想が持ててしまうあたり、すっげえ好演だと思います)。
つまり、なんというか「このとても愉快なコメディアンは、たまたまヒトラー本人ですけどすごく面白いですね」というのは、カウンターとして作用しないどころか、むしろヒトラーに好感を抱かせる要因となってしまうという。これが後半、非常に効果的に効いてきます。
そして二つ目、ドッキリ的に仕掛けられた、ヒトラーが街の人々の声を聴くインタビューがふんだんに取り入れられています。
まるでマイケル・ムーア作品を見ているみたい。
ここでリアルに右傾化しつつある、普通の民衆の声を聞くわけだけれど、今まで作り物だった作品が一段階、実世界にぐっと引き寄せられるような効果があります。おや? これは笑い事じゃないかもしれんぞ?*1
そしてメタフィクション的な第3段階。
なんと作中でヒトラーが実際に「帰ってきたヒトラー」を執筆し、その映画化が始動し始めるにいたります。
図式的には、最初は無害なコメディだったものがグッとリアルに近づいてきて、とうとうこちら(現実世界)へコミットし始めるわけですよ!
そしてあのラスト。もう大好きなんだけれも。なんともムスカ大佐的というか。*2
ここで、最初、あの無害でただ面白いだけだったはずのコメディの持つ意味が重くなるというか。
あれがカウンターとして機能せず、むしろ逆の効果を持つものだったからこそ、ここにいたるわけで。
つまりですね。
作中において、ヒトラーは「笑い」を政治利用していたということが、ここにきて決定的になるわけですよ。なんてこった!!
私自身も以前に笑いに政治を持ち込むことについて批判的な意見をtweetしたこともありますし、最近も「フジロックにSEALDsなんか呼ぶなよ!」ってな騒動がありましたけれど、もうどーすんだよ、これ。
チャップリンはヒトラーに扮して「独裁者」をつくったんですけれど。
「帰ってきたヒトラー」のヒトラーは、必要とあらばチャップリンの役割を自ら進んで演じてみせるわけで。しかもよくよく見ると、そのことは作中でも明言されています(!!)。
「面白くて、威勢が良くて、民衆の声を代弁する愉快なおじさん」を、俺たちはどうやって批判すればよいのか?
作中で、真にヒトラーを批判しているのはただ一人だと、私は思うのだけれど、それ、相手がたまたまヒトラー本人だから通用した批判で。
相手が本当に「ヒトラーのそっくりさん」だったら、この論法では批判できないんですよ。なんてこった。
ヒトラーが作品内で繰り広げる騒動で、観客である我々が批判できる(どうやっても擁護できない)ポイントは、動物愛護家なら二ヶ所、そうでなければたった一ヶ所だけ。
「だけ」なんですよ。これがね。
これがね、本当に怖いの。
つーわけで、ものすごく高度に政治的な映画でしたよ。「帰ってきたヒトラー」
笑えるって、なんて恐ろしいことなんだろう。*3