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万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

【ネタバレ】「第9地区」をようやく観ました/ヨハネスブルグからの不敵な挑戦状

話題の映画「第9地区」をようやく観ました。
いやー、なんですか、このひねくれた映画は(笑)。何とも言えない居心地の悪い後味がなんとも。観てよかったです。
以下、ネタバレをはさみつつ感想を書こうと思いますので、まだ観ていないと言う方はご注意ください。

20年前に突如ヨハネスブルグ上空に飛来した巨大なUFO。その中にはエイリアンの難民が一杯に詰まっていた。20年後、スラム化した居住区「第9地区」に隔離されたエイリアンと地域住民の間での確執が拡大。多国籍企業MNUは政府から委託を受け、エイリアンの第9地区からの強制移住に着手するのだが……といった感じのストーリー。
舞台は南アフリカ・ヨハネスブルグ。「エイリアン」の「隔離」というと、どうしたってアパルトヘイトを連想させられてしまいます。で、事前の情報や予告映像なんかから、「フェイクドキュメンタリーみたいなタッチで、エイリアンを黒人にみたてて人種差別問題を描く社会派でシリアスな作品なのかなー」などと想像しながら観に行ったのですよ。
ところがどっこいしょ。
そんな素直な作品ではありませんでした。いや、「この居心地の悪さは一体何だ!?」と、思わず続けて2回観てしまいましたですよ。まったくもう。


この映画、実に作りが古典的といいますか。お約束をがっちり守った堅実な展開、しかも結構テンポがいいので、実にスイスイ楽しめてしまうのですよ。男女の愛情あり、親子の愛情あり、冷酷な悪役あり、ショッキングなシーンもあり、アクションシーンもたっぷり、良質なB級エンターテイメントという感じで。ラストもハッピーエンド風だし。うんうん、おいしかった、と。
それなのに、どうにも後味が悪くて仕方が無いのですね。その理由を、以下に挙げていきます。

まず、主人公のヴィカス(シャルト・コプリー)。この人、エイリアン強制移住プロジェクトの責任者に抜擢された若きビジネスマンで、しかも支社長の娘と結婚して玉の輿というエリートさんなのですが、こいつがもう最悪の人間なんですよ。
強制移住の現場ではアコギな手を使って書類にサインをさせて、その背後には武装した傭兵がいるから逆らえず、子どものエイリアンに投げ与えたキャンディーを投げ返されて激怒し、目の前でエイリアンが傭兵に撃ち殺されても全然平気。
ある事件が起きてエリートの座から転落し、社会から追われる身になって、エイリアンと交流を持つようになっても、相変わらずエイリアンを「エビ」(映画内ではエイリアンに対する蔑称として使われています)と呼び、時にはクリーチャー呼ばわり。自己中心的だわ、弱いわ、意志薄弱だわ、裏切るわ、そのくせ小者だわで、本当にひどい奴なんですよ、こいつが! 取り柄と言ったら奥さんにベタ惚れであることぐらいで。好きになれる要素がなんにもない。

対して、エイリアン側の準主役であるクリストファー・ジョンソン(ジェイソン・コープ)ですが、こちらは実に高潔な人物として描かれています。
自分たちを救うべく20年にわたる努力を重ね、自らの子供を愛し、粗暴に描かれることの多い他のエイリアンと比べて態度も紳士的。頭脳も明晰。切れ者で不屈で人間味あふれる人物、なのであります。
でね、これは特記すべきかとも思うんですが、作中で死者に哀悼の意を表する、死者を悼んでいるのって、エイリアンであるクリストファーのみなんですよね*1。「死を悼む」という実に人間的な行為を、人間はせずにエイリアンがするわけです。最後にはクリストファーは、度重なるトラブルを何とか切り抜け、自らの目的を達成します。ジャンプじゃないけれど友情・愛情・努力・勝利という具合で。まさに主人公に相応しい。

でも主人公として描かれるのはいけすかない白人エリートのヴィカスなわけですよ。白状しますと、クライマックスに向け何度かヴィカスがピンチに陥る度に「うわ! こいつこのまま死ねばいいのに!」と思ってしまいました(笑)。


先にこの作品は良質なB級エンターテイメントだと書きましたが、観る前に予想していたような、人種差別をテーマにした重い作品を期待するとがっかりする人もいるかも、とか思います。「第9地区」にはその手の重さはありません。
テンポがよいのもそれに寄与しているでしょうし、また、本作における死の描き方、というのも関係あるかなと思います。一部例外はありますが、いわゆるショッキングな死に方をするのってエイリアンであることが多いのですよね。もちろんショッキングなシーンではあるのですが、そうは言っても人間とはかけ離れた異形のエイリアンですので、人間が同じ死に方をするのと比べるとショック度は弱まります。
人間もたくさん死ぬのですが、その人間の死に方はどうなっているかといいますとね、未知のテクノロジーが使われたエイリアンの兵器で殺されることが多いもので、まるでゲームのようにポンポン弾けてしまうのがほとんど。リアルなものとは言い難いです。
奇妙な果実じゃないけれど、理不尽な死に様をショッキングに描くと言うのは差別問題を表現するうえで有効な手段であるはずなのですが、そこのところを「第9地区」は放棄しているんです。


さて、ストーリーを見る限り、この映画のメッセージは人種差別への反対であるはずです。
ところが、理不尽な死を描くべきであるのにもかかわらず、それを放棄しています。
さらに、高潔なエイリアンであるクリストファーではなく、どうしようもないヴィカスが主人公です。
ヴィカスが主人公なのはなぜか?
それは、ヴィカスが白人だからです。


「お前は一体なにを言っているんだ?」と思った方もいらっしゃるかもしれません。いやいや、ちょっとまった。
この映画、よく観てみると差別的な表現、差別意識がにじみ出る演出がなされているのですよ。
もちろん、エイリアンが差別されていますよー、という事をわかりやすく示す演出があるのは当然なのですが、それだけじゃなくてですね。
例を挙げますと、エイリアンの名前は「クリストファー・ジョンソン」。どう考えても英語の名前であり、彼本来の名前ではありません。彼には彼本来の名前があるはずなのですが、それはとうとう最後まで示されないままです。彼は名前を奪われたままの存在で終わります。

エイリアンがタイヤを食う。食うために食料であるタイヤを奪い合うなんていうシーンはもうひどいブラックジョークといいましょうか。分からない人は「黒人」「リンチ」「古タイヤ」で検索してみてください。

他にも、ヴィカスが映画の序盤で、エイリアンの卵を嬉々としてダメにしてしまう(しかもそれを「中絶」と称する)シーンが有ります。映画の後半、ヴィカスはクリストファー親子の愛情に触れ、クリストファーにも息子さんのことを考えろ的な事を言ったりするのですが、ヴィカスが自らダメにしてしまったエイリアンの卵のことを振り返ることはありません。いわば、自らが犯した罪については最後まで言及しないままなわけです。

まだあります。是非ネットなり何なりで、でも願わくば映画館やパンフレットで、クリストファー親子の姿をチェックして欲しいんです。で、次にその他の脇役エイリアンたち、劇中では粗暴で暴力的に描かれている彼らの姿を見て、比べてみてください。
好ましい人物として描かれているクリストファー達は服を着ています。
その他の暴力的なエイリアンたちは、ボディペインティングらしきものが見られることはあるものの、基本的に衣服を着ていません*2
野蛮なエイリアンは衣服を着ていない。
裸族、なんですよ。


おやおや? ちょっとおかしいぞ? といった視点でストーリーを見直してみると、実はこのお話、クリストファーが20年かけて準備してきた同胞たちを救おうという計画を、白人のヴィカスが自分勝手にさんざん引っ掻き回して、それで計画は挫折しそうになるけれども、なんとかそのトラブルを乗り越えて計画を見事達成する話、なんですね。一見、最後にヴィカスが改心(?)して大活躍するように見えなくもないですけれど、私にはあれ、先行きが真っ暗になった男がヤケを起こしたように見えて仕方がなかったです。
どう考えても主人公に相応しい物事を成し遂げているのはヴィカスではなく、エイリアンのクリストファーの方です。でもヴィカスが主役。白人だから。


思い出すのはポール・ヴァーホーベンの「スターシップトルーパーズ」でしょうか。あの映画は、ストーリーは愛国的・好戦的。演出も愛国的・好戦的。で、マイナスとマイナスを掛け合わせるみたいなもので、映画のテーマとしては「反戦」であるという映画でした。
ところが「第9地区」の場合は、ストーリーは反差別的なのに、演出は差別的なのですよ。ねじれているんです。
どうしてこんなややこしいことをしたんでしょうか?


この作品の監督はニール・ブロムカンプ。主にCMや短編映画で活躍していた御仁で、あのゲーム「Halo」が映画化されると言うことになった際、監督に抜擢されるも、その企画が空中分解してしまったそうで。
最近、個人的な興味から、ゲームと暴力性についての本を何冊か読んでいるんですが、「Halo」というと、「グランド・セフト・オート」や「バイオハザード」と並んで、ほぼ必ずと言っていいほどそういった本に出てくるタイトルであります。もちろん、暴力的なゲームの例として。また、「Halo3」のCMも手がけたそうで。
要するに、社会的な批判を浴びている作品に関わった人物なんですね。
推測ですが、この「第9地区」というのは、そういった、自分たちに批判を浴びせた人々に対する大胆不敵な挑戦状なのではないでしょうか。
この作品、エンターテイメントとして実に堅実に仕上げてあります。
作品のテーマとしても、「反人種差別」という、社会的に好ましいものとなっています。
ところが、実際に映画を見てみると、その中身は人種差別・偏見に満ち溢れている。
つまり、上っ面を見ただけでは、この作品の差別的な表現に気がつくことは出来ないんですね。
「あなたたちに、この作品をきちんと批判することが出来るか? この作品は差別的だと指摘することが出来るか?」 そんな声が聞こえてくる気がして仕方が無いんです。
言い換えると、自分たちに向けられた批判というのが、実に上っ面の薄っぺらいものに過ぎなかったかを皮肉っている、実に底意地の悪い意趣返しとでも言いましょうか。


この「上っ面」と「実際」という二重構造が実に端的に示されているのが、今作のラストシーンであると思います。
一見、クリストファーの計画がヴィカスの活躍によって達成され、めでたしめでたし、です。
クリストファーの計画というのは(詳しい説明は避けますが)、人類とエイリアンの対立を解消しよう。両者が歩み寄っていこうというものではありません。共存ではなく、別々に暮らすことを志向したものです。
計画は即座に最後まで完了するものではなく、何年もの時間がかかることが示唆されます。そして本当に計画を最後まで完遂することが出来るのかは、必ずしも確実ではありません。実質的にはまだ何も解決していないんです。
最後にジャーナリストが、計画がこの先どうなるかについて3つの可能性を口にします。このまま何も起きないか。人類にとって驚異となるか。エイリアンにとって希望となるか。これは、クリストファーのやったことが人類とエイリアンの対立を招く元となることを強烈に示唆しています。
そして、この映画はあるひとりのエイリアンが、ささやかな希望を胸に日々を生き抜いているシーンで幕を閉じます。
そう、エイリアンは実際に希望をいだいてしまっているのです。それならば人類は?
本当に、「第9地区」は底意地の悪い作品だと思います。観てよかったです。

*1:ヴィカスにも一応、エイリアンを撃てと言われてそれを拒否し、にもかかわらず強制的に撃たされてしまうシーンはあるのですが、自らが撃ったエイリアンの死を悼むというよりも、エイリアンを撃ったという事実にショックを受けているという様に見えますね

*2:私の記憶違いでなければ、一体だけ例外があります。そのシーンには思わず笑ってしまいましたが