痛いニュース(ノ∀`):作家の坂東眞砂子が18日の日経新聞で日常的に子猫を殺していると語る
私自身は金魚とカナリアしか家にいたことがないし、自分で世話をしていたわけでもなければ可愛がっていたわけでもないので、この行為そのものについては「だったらそもそも猫を飼わなければいいのに」という感想しかないのだけれど、以前から漠然と考えていたこととちょっと重なる部分があったので、何かしら書いておこうかと思う。
いや、生命倫理関係の話ではないんだけれども。
理屈の前に感情が先行するような問題って多いと思うのだ。
以前こんなエントリを書いたことがあったのだけれど
万来堂日記2nd - 理屈じゃないのよ涙は はっはぁん♪
このエントリで言いたかったことと似たようなことを、この猫の件でも感じたのさ。
坂東眞砂子氏、ご大層な理屈をこねているけれども、その根元には確実に感情があったはずだ、と。まあ、推測っちゃあ推測だけれど。
そこになんというか、感情的に反感を抱いてしまったのですよ、私が。
よくあることだけれども、何かを擁護したり批判したりするとき、その根元にはその理屈をこねようと思ったきっかけがあるはずで、それは感情的なものである場合も多いと思うのさ。例えば「猫の世話がとても大変。辛いよ」とか。
私が著作権絡みで理屈をこねるが多いのも、出発点は「洋楽が聴けなくなるなんて嫌!」だったし、新古書店勤務の私は広い意味で利害関係者だし。
その、感情の部分を取り上げない形で理屈を展開する文章ってのにお目にかかると、にんともかんとも。
言い方を代えると、私は「人間の感情は論理的な考えに先攻する」というモデルを支持しているってことなんだけれど。
なんか人間ってやたらと大脳新皮質が発達していて、意識とか知能とかって、それと関係あるぽっいじゃん? 知能とか自意識とか、なんかそこら辺のものって、感情とか本能とかのあとに出来たものと違うの?ってのがあるわけですよ。
なんか有名なアイヒマン実験とか監獄実験とか、あるいは認知的不協和とかね。
だからね、感情から逃れることは出来ないのに元々の感情を無視した文章ってのはどうも……気に入らないのですよ。