乗り遅れた感があるのですが、「錯覚の科学」を読了しました。
自分はデマに踊らされていないと思っている人は、特に読むべきです。読まないだろうけど。
デマに騙されない人間なんていないし、ホモが嫌いな女子なんていないし、飛影はそんなこと言わないし、お兄ちゃんどいてそいつ殺せません。
タイトルに「錯覚」という言葉が入っていますが、これ、本書の内容を勘違いさせやすいかも、と思います。
錯覚というと錯視であるとか見間違いであるとか、そういったことを連想しがちですが、本書の主題はそれ以外のところにあります。
本書の主題を簡単にまとめるならば
「人間は自分の認識を過大評価する傾向がもうどうしようもなく組み込まれてしまっているよ」
ということであり
「あなたが自分の認識に対して持っている自信には、実は裏付けなんてほとんどないよ」
ということです。
空前絶後のデザインの悪さを誇る本書の帯にも書いてあるのですが、著者はあの「見えないゴリラ」の実験をした学者さんです。
この実験、「被験者にバスケットボールの試合映像を見せて、そのパスの回数をカウントしてもらった。実はその映像にはゴリラの着ぐるみを着た人物が紛れ込んでおり、カメラに向かって胸を叩いて見せたりしていたのだけれど、約半数の被験者がそれに気が付かなかった。なんと、人間の注意力のあてにならないことか!」 という、ユーモラスな実験で、あのイグ・ノーベル賞も受賞していたりするのですが、実はより興味深いのは以下の箇所です。本書19ページより引用します。
といっても、私たちがこの本を書こうと考えたのは、非注意による盲目状態やゴリラの実験のためではなかった。人が見落としをするという事実も重要だが、それ以上に興味深かったのは、自分の見落としを知ったときの、人々の驚愕ぶりだった。あらためてビデオを見てもらうと、もうパスを数える必要がなくなった参加者は、全員すぐさまゴリラに気づき、ショックを受けた。「あれを見逃したの?!」「まさか!」という声があがった。のちにデートラインNBCの番組で同じ実験に参加した男性は、「最初に見たビデオには、絶対にゴリラは出ていなかった」と言い張った。べつの参加者は、私たちが陰でテープをすり替えたのだと主張した。
この本を執筆中、私たちは調査会社のサーヴェイUSAに依頼して、自分の注意力についてどの程度自信があるか、アンケート形式でアメリカの代表的な成人の回答を集めた。結果を見ると七五パーセントの人が、たとえべつのことに集中していても自分は予期せぬできごとに気づくと答えていた。
つまり、私たちにはどうやら、自分の注意力を実際より信頼できるものだと過信する傾向があるようなのです。これを著者たちは「注意の錯覚」と呼んでいます。
そしてその、認知の信頼性を過大評価する「錯覚」は、もっと広範囲に及びます。
自分の記憶が正しく事実を反映していると考える「記憶の錯覚」
自信ある態度の人のいう事は信頼できるだろうと考える「自信の錯覚」
自分がある対象について実際以上に深く理解していると考える「知識の錯覚」
デマゴーグが生まれるうえで、人間が「Aの後にBが起こったのだからAはBの原因である」と考えてしまう生得的傾向が大きな役割を演じていると論じる「原因の錯覚」
人間の潜在能力、およびその訓練しやすさや影響されやすさをを過大に見積もってしまう「可能性の錯覚」
以上が本書で指摘される錯覚です。
つまり、あなたは何かを見落とすかもしれず、記憶は正しくないかもしれず、自信満々の態度をつい信用してしまい、因果関係をついつい直感的に判断し、簡単な訓練で頭がよくなると思っています*1。
これはまさしく、3月11日以降の私たちのようではありませんか?
だからこそ「全国民必読」なのです。
最後に、「記憶の錯覚」の実例をお目にかけましょう。お恥ずかしい話なんですが。
私、ゴリラの実験について紹介する際に「確か被験者の内の何パーセントが自分の注意力に自信を持っているか書かれていたな。そこを引用しよう」と思って、パラパラとページをめくりました。
ところが、いくら探してもそんな記述はなかったのです。
実際には見落としていたにもかかわらず(もしくは実際には見落としている人物が多いにもかかわらず)、自分たちが尚も自分の注意力に自信を持っていることを示す数字があったならば、私にとっては劇的にエントリのインパクトを強める、実に都合のいいものになったに違いありません。
そのような願望が記憶を「この本にはゴリラの実験に参加した被験者が、自分の注意力についてどのような自己評定を下していたか記述があったはずだ」という風に歪めてしまったのでしょう。
本書を読んだ直後ですらこれです。あなただって、例外じゃないんですよ。