万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

須藤真澄「グッデイ」/史上最強の「ファンタジー」

誰しも生きていくにはファンタジーが必要だ。現実だけでは生きていけない。
ほんのひとかけらのファンタジーを支えに、私たちは今日も生きている。



「グッデイ」は長年、良質のファンタジーやエッセイマンガを描き続けてきた須藤真澄の最新刊だ。
帯に粗筋が書いてある。過不足なく見事にまとまっているので引用しよう。

『玉迎え』とは、体の寿命で亡くなる人の体型が、
その前日から球体に見える状態をいいます。
玉迎えは、15歳以上の人が任意で服用できる『玉薬』を
飲むことで見えるようになります。
亡くなる人と、玉迎えが見える人の組み合わせは、
世界でたった一組のみ。
だけど、もし0.0000……X%の確率を越えて、
出会うことができたなら……。

本書では様々な「玉迎え」が書かれる。家族に「玉迎え」の姿が目撃される者、玉迎えを迎えた見ず知らずの老人のために東奔西走する者、玉迎えとなったのになんかクールな目撃者の様子に拍子抜けする者、ひとり孤独に病院のベッドで玉迎えとなる者、エトセトラエトセトラ。
本書のファンタジー要素、道具立てとしてはこの「玉迎え」という現象のみだ。



冒頭に、誰しも生きていくにはファンタジーが必要だと書いた。そのファンタジーとは「玉迎え」のことではない。


「玉迎え」は道具立てに過ぎない。
その結果もたらされたもの。それこそが生きる糧となる「ファンタジー」に値する。


では、その「もたらされたもの」とは一体何か。
作中では様々な形をとっている。家族の精一杯のもてなしに満足げに呟く姿であり、自分が亡くなることを知り身辺整理を済ませていつも通りに就寝する姿であり、世の中に冷めてしまった目撃者に対して鼓舞するかのように思いのたけをぶちまける死にゆく者の姿であったり、様々だ。
その様々な「死」の在り方に共通する点がただ一つ。


それは、誰一人として、孤独のうちに亡くなってはいないという事だ。


そう、誰も孤独ではない。須藤真澄は、病院のベッドで一人横たわっている老人にさえ、孤独であることを許さない。
誰一人として、孤独のうちに亡くなることなどないのだ、あってはならないのだ。一見孤独に見えたとしても、必ず誰かがあなたとつながっているのだという、実に非合理的で、とてつもなく力強い信念。
それこそが本書の中核をなす「ファンタジー」であると、そのように思う。


誰しも生きていくにはファンタジーが必要だ。現実だけでは生きていけない。
ほんのひとかけらの、非合理的な信念を支えに、私たちは今日も生きている。
「グッデイ」は、これまで読んだ中でも最上級の作品だった。

為末大さんの古典的なHIPHOPに関する無理解に対してひたすらRHYMESTERのリリックを引用する

為末大さんがtwitterでこんなこと言って炎上している。この手の言説ってまだ絶滅していなかったのかと、懐かしささえ感じる。
HIPHOPに対するこの手の批判は黎明期から言われまくっており、それに対する反論もされまくっており、そういう見方する人は随分減ったかと思ったら、まだいるものなんだなー。
ここはひとつ、RHYMESTERのリリックを引用することで、そういった批判に対してラッパーがどのように反論してきたか、見てみようと思う。


EGOTOPIA

EGOTOPIA

  • RHYMESTER
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥1833

まず95年発売のアルバム“EGOTOPIA”より、どんなHIPHOPに対して批判がなされていたかについて。

「ヒップホップとかラップとかって
マニアック マニアックや~ん」

マニアック オタクならとにかく
「苦手なの」ってホザく

「バンドやってんだ? 楽器弾けんだ?
え? 楽器できないでバンドやってんだって?」

(悪趣味節)
この「悪趣味節」の中ではこれに対する反論としては「うっせーバカ!」以上の内容は言っていないのだけれど(笑)。


リスペクト

リスペクト

  • RHYMESTER
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥1833

99年リリースの名盤“リスペクト”だが、振り返ってみるとこのアルバムでは批判に対する反論はあまりなされていない。むしろ自分たちの立ち位置の確認と表明、シーンの現状の確認といったものが多い。
それでもこんなリリックがあったりする。

体突き動かすアフリカンビーツ×日本語ラップ+缶ビール
探し出す自分の方程式 正解は誰も見た事ねえ景色
例えばイタメシ パスタにタラコ足したメニューが定番と化した
ごとく日本の歴史上に 残すべきもの作った生き証人
まさしく先見の明 教訓1はズバリ ファック世間の目
井の中の蛙 海に出ても生き残ってやる必ず

(リスペクト)
このように、99年の段階で自分たちの取り組んでいるものがアメリカのコピーを目指したものではないことを鮮明にしているわけだ。

https://itunes.apple.com/jp/album/uwasano-zhen-xiang/id570100868?at=10l8JW&ct=hatenablog

そして01年リリースの“ウワサの真相”。アルバムのタイトル曲ともなっている「ウワサの真相」が、かなりキツい調子での反論となっている。

いわく「日本にHIPHOPは根付かねえ! 日本人がラップするとはイケスかねえ!
何の意味がある? この尻軽! 所詮無理がある!」

この「現場」以外に「本場」なんてのは存在しない
外野の野次は聞くにほとんど値しない
コンプレックス マジ脱したい?
なら他人の評価なんてのはそれこそ時代次第
てめえにしか託せねえだろプライドは
ワケがあんだよ このデカイ態度は
モニターに映る文字とかよかずっと確かな
オレの過去 そして明日だ

(ウワサの真相)
外野の言説よりも自分たちが積み上げてきた実績、これから築いていく実績の方がよほど価値があるという明快なメッセージだ。


https://itunes.apple.com/jp/album/gureizon/id569967934?at=10l8JW&ct=hatenablog
そして04年リリースの“グレイゾーン”。ものすごく密度の濃いアルバムで、もう大傑作であるが、リリース当初はレーベルゲートCDだったんだよねぇ……今はCDDAでも出直してますが。

オレの名前はトーシロ 良く聞きな道行くトーシロ つまり同志よ
素晴らしい音楽史のパラサイト ヒップホップはまだくたばらない
オレの時代が終わっても このブームが去って明後日にもゴミ箱漁っても 電気すらなくなっても
最早止められないこのアートフォーム

(ザ・グレート・アマチュアリズム)
一過性のブームが去ったとしても、既にHIPHOPは根付いているんだという、根付かせようと奮闘してきた彼らからしてみたら勝利宣言みたいなものかもしれない。


んで、為末さんこんなことも言っているんだが


これに関して、一刀両断ともいえる回答がこちら

オレの仕事は本場モンの翻訳じゃない

(グレイゾーン)


そしてこれ以降はそういったテーマを扱う事もなくなり……とか思ってたんだけど、まだまだやっているね、振り返ってみると(笑)

https://itunes.apple.com/jp/album/heat-island/id570101463?at=10l8JW&ct=hatenablog
06年リリースの“HEAT ISLAND”収録、曲名がズバリ“WE LOVE HIPHOP

キミらなんとも嬉しそうに言う「音楽はスバラスィ~!」ってその理由
「なんていうかラップとかヒップホップなんていうワク ラクに飛び越してるゥ~」
ヘイヘイ こいつはカチンとくる
悪気はねぇんだろうし まあまあ、そこは人徳
怒りゃしないがバシッと言っとく その欺瞞に泣くときがきっと来る」

まぁまぁ 分かる気もすんだよ アンチの気持ちも
ヤラれちゃってなきゃ あん時もしも オレも同じくdisしたかも
「徒党組んでハードコア気取るポーズ キモ~イ!」
だけどやっぱさぁ んな上っ面だけじゃねえんだ ヒップホップやラップは

(WE LOVE HIPHOP)
自分たちは未だにHIPHOPにこだわっており、批判は上っ面の物に過ぎない、というわけだ。


さすがにこれ以降のアルバムではHIPHOPを擁護する曲はなくなり(というか、もはやその必要性を感じていないんだろう)、社会的なメッセージが増していくのだけれど、今のところの最新作“ダーティサイエンス”収録曲から最後に少しだけ引用を。

オレは夢見る キミは夢見る
夢の無い時代に産まれても
今日の絵空事で明日を変えろ

(ゆめのしま)


多くのアーティストたちが夢を見て、その夢にまたニューカマーたちが夢を見て、現在もまだ夢を見つづけているわけで。
為末さん、例示としてHIPHOPを出したのは、はなはだ不適当でしたね。

MikuHop LPの感想(大変気に入っています)

先日ダウンロードしたアルバムを大層気に入ったので、簡単に感想を書いておこうと思う。
f:id:banraidou:20140710202950j:plainhttp://stripelesslabel.tumblr.com/post/96258100680/mikuhop-lp-release
http://stripelesslabel.tumblr.com/post/96258100680/mikuhop-lp-release

”MikuHop LP“なるこのアルバム、上記URLより無料ダウンロードできる。いわゆるボーカロイドを使用したHIPHOPコンピレーションアルバムだ。
13曲入り。まるでレーベルのショウケースのような感じで、収録されている曲調は実に様々だ。アンダーグラウンド臭漂う曲から始まって次第にポップになっていき、終盤に向けてまた実験的になっていくという作りになっている。
個人的には、目新しさよりも好意的な意味で既視感を感じたアルバムだった。これをボーカロイドでやっているという意味では確かに目新しい部分はあるのだけれど、「ボーカロイド」というくくりを外すと、そこに広がるのはあの日聞いて首を揺らしていた音楽たちをしっかりと引き継いだ曲たちだ。
例えば1曲目の”It's da MIKUHOP”。ボーカロイドによるビートボックスの再現という実験意欲旺盛な作品だが、注目したいのはそのリリックだ。極めてシンプルで聞き取りやすいフロウに載せて語られるのは、アルバム及び曲名に冠された”MikuHop”というものがどういうものであるかについての自己言及。リリック内の”MikuHop”を"HIPHOP"に置き換えてみてほしい。日本語ラップを確立しようと奮闘してきた先駆者たちがリスナーにHIPHOPとはどういうものであるのかを示そうとしていたあの自己言及と重なりはしないだろうか。
例えば3曲目の”ミッキーマウス”。収録曲の中ではおそらくもっともアングラ臭溢れる曲であり、ラップ的にも最もとんがっている(ちなみに、このアルバムにはインスト曲も多い)が、この印象的な裏返る様なフロウにも、Commonの1stアルバムやAkinyeleの諸作と言った先駆者が存在する。
例えば4曲目の”灯”。birdとかTinaとか嶋野百恵とかShowleeとかもっと流行ると信じて疑わなかったんだよ、畜生! まあ、御存じのとおりヒットチャート的およびシーン的には安室奈美恵に代表されるように、それよりちょっとだけ後のUSにおけるR&Bの影響を受けた歌姫ばっかしになっちゃったんだけどさ。
まあ、こういったことをぐちぐちと書いて行ってもきりがないのでここら辺で止めておくけれども、指摘しておきたいのはHIPHOPに呪いみたいにまとわりつき続けるマッチョイズム(ハードコアと言い換えてもいい)、およびボーカロイドのキャラクター性、また支持を集めている既存のボーカロイド曲の特徴として指摘されるストーリー性といった諸要素から、このアルバムに収録された楽曲たちは自由だということだ。
唯一の例外が7曲目の”放課後はライムマスター”。この曲はボーカロイドのキャラクター性に依っていると言えるが、この曲にしても使用しているボーカロイド蒼姫ラピス、マクネナナ、メルリですよ。決してメジャーとは言えない。キャラクター性を生かすのならもっとメジャーなキャラ使っておけばいいってな話なんだけれど(笑)。
そういったわけで、このアルバムは、既存の素晴らしいHIPHOPやその周辺の音楽をいっぱいに吸収して、それをボーカロイドを使うという形で表現しつつも、HIPHOPボーカロイドにいつの間にか付随してしまっていたいくつかの要素から自由に離れてみせた曲が多く収められている、と言えると思う。
そういった曲が公開されるのはこれが初めてではない。このアルバムに参加している人たちも以前から複数の曲を公開しているし、このアルバムに参加はしていないがニコニコ動画で多くの再生数を稼いでいる楽曲もある(ぱっと思い浮かぶのはショミさんかなぁ)。しかし、そういった曲をまとめることで緩やかなコンセプトを提示して見せたこのアルバムは、私にとって非常に好ましい意義を持つ。


ここまできたら触れないわけにもいかんか。えーと、このMIKUHOP LPに対するdis曲と言うのも公開された。



私は二つの理由でこの曲が好きではない。一つ目の理由はまさに上記の要素、ハードコアのマッチョイズムとボーカロイドのキャラクター性に依存した曲であること。二つ目の理由は、単純にカッコ悪い曲であること。

さらに、これに対するアンサーも公開されている。

私は、単純なカッコよさでこちらの方に軍配を上げるが、あなたはどうだろうか。

笑福亭たまさんがホームゲームで危険球を投げる


足の怪我もよくなったので、8月31日に久しぶりに落語を聞きに出かけた。高津宮は高津の富亭でこの8月に14日間開催された高津落語研究会特別講演の最終日、千秋楽という奴だ。
野球やサッカーなどでホームとかアウェイとか言うが、完全なるホームだった。とはいえこのホームと言うのはこの高津の富亭で毎月「高津落語研究会」として勉強会を開催している4人(敬称略で桂南天、笑福亭たま、桂ひろば、桂雀五郎)が作り上げたものだ。毎月の積み重ねで支持を広げ、8月に14日間公演というお祭り(しかもそれぞれの演者は14日間別のネタをする)を仕掛けた。千秋楽が盛り上がらないわけがないのだ。あの高津の富亭になんと77人の入り。
番組は
雀五郎……初天神
ひろば……上燗屋
南天……代書
たま……三十石
大喜利・抽選会

となっている。4人がそれぞれに見ごたえ、聞きごたえのある高座で、もう楽しくて仕方なかったんだけれど、それはやはり客席に漂うホーム感というのもあるだろう。客席もだんだんノってくるのだ。
特筆すべきはたまさんの「三十石」だろうか。どちらかと言うと風情を楽しむような話として演じられることが多い「三十石」だが、それを見事にぶっ壊して爆笑譚、というか艶笑噺にしてしまった。これもホームでしかできないチャレンジだろう。仮にだけれど例えば繁昌亭の昼席でやったらおそらく客席はドン引きすると思う。
聴いている最中はそこまで気が付かなかったのだけれど、たまさん、マクラでは「学校寄席に行って、演目や落語の中で使われる言葉について教育上ふさわしくないからと言う理由で自主規制を求められた」という話で笑いを誘っていたのだけれど、あれ、「だから今日はもう思いっきり危険な事やるよ」ということだったんだな、多分。
素晴らしかったのが、最後の抽選会も盛り上がったことだ。だいたいこういう抽選会って途中で結構ダレたりするんだけど、なんと最後に14日間のネタを書き出して会場内に貼ってあったネタ帳を争奪するべくジャンケン大会に突入したのだ。終演後にもう一回ヒートアップして終わるという。会の後味としては最高だった。

米團治さんの飛び道具と米二さんのビート

今日は動楽亭の昼席に行ってきた。番組は、敬称略で
鯛蔵…阿弥陀池
しん吉…若旦那とわいらとエクスプレス
雀喜…うなぎや
出丸…皿屋敷
中入
米團治…片棒
米二…青菜

米團治さんの「片棒」がとんでもない飛び道具で。なんと、登場する親旦那が米朝師匠なんだよ!(噺の中では「中川兵衛」って、やっぱり米朝師匠じゃないすか!)
で、その米朝師匠が三人の息子を呼びつけてもし自分が死んだらどのように弔うか聞いていく、って、三人の息子って、やっぱり米朝師匠じゃないすか!
米朝師匠のモノマネもふんだんに取り入れ、葬儀の会場も尼崎アルカイックホールだったり(米朝師匠は武庫之荘在住)、葬儀で日本全国巡業したり(米朝師匠も日本全国津々浦々で独演会を開催)、京都では祇園の山鉾の上に米朝アンドロイドを乗せたりと、もうやりたい放題で。ずるいよ、こんなん。笑わないわけないじゃないの!

で、その後トリの米二さんは、もはやおなじみとなったマクラに続けて「青菜」。これも今まで何回も聞かせてもらった既視感のあるネタ。とんでもないサプライズの直後だからこれはどうかなあとか思っていたんだけれど、最終的にはもう思いっきり楽しんでしまったのだから、本当、落語ってわからない。
今日の米二さんはものすごくリズミカルに感じた。というか、もしかして私が「リズミカルな落語とはこういうことだ」ということにようやく気が付いたのか。どちらなのかはわからないけれど、とにかく、ものすごくリズミカルに感じられた。
淀みなくテンポ良く、まるで良質のビートのようにトントントーンと植木屋が話していく。その淀みない流れがふっと断ち切られたり、ひょっとテンポが変わったりする。するとそこで笑いが巻き起こる。
そしてまた心地よいビートが始まる。それがまたひょっと変わる。そこでまた笑いが巻き起こる。ずっとその繰り返し。
白状すると、気が付くと米二さんがどこでブレスを入れるのかに注目しながら高座に見入っていた。もっとも、途中からそんなことも忘れて笑っていたけれど。
落語について考えるときは、どうしても枝雀師匠の、笑いが巻き起こるメカニズムとしての「緊張の緩和」の理論を思い起こさずにはいられないのだけれど、考えてみれば、「どのようにして客席の緊張を高めていき、どのようにしてその緊張を開放するのか」という具体的技術について語られたものと言うのは、不勉強にして読んだことがない。
心地よいビートとその変調。ひょっとしたら、これがその方法のひとつなのかもしれない、などと考えながら、帰宅するにもちょっとまだ早いからと映画館に入り、そして「GODZILLA ゴジラ」を見て大満足したわけである。いや、面白かったよ! ゴジラ

「GODZILLA ゴジラ」の感想を書きますよ(ネタバレあり)

GODZILLA ゴジラ」の感想を書きます。ネタバレあり。それもかなり盛大に。未見の方はくれぐれもこの先を読まないでください。











では、いきます。
もうね、大絶賛しますよ?
これは「子どもにもわかるように作られた震災映画」です。異論は無かろう?
一番のポイントは、ゴジラだけが出てくるのではなく、敵役の怪獣が登場すること。ムートーと言う名前で、おそらくはコウモリがモチーフだと思います。空飛ぶし、妙に手が長いし、エコロケーション*1するし。
でね、この映画では怪獣は震災のメタファーなのですけれど、そのメタファーたる怪獣を2種類用意したというのが、おそらくはこの映画の最大のポイントです。
これもまあ、作品内でこれ以上ないくらいに明確に描かれているので「何をいまさら」と言う感じでちょっと気恥ずかしいんですけれど。
ゴジラが「震災」ひいては「自然」
ムートーが「原発事故・放射線被害」ひいては「人災」の象徴なんですわ。
んで、ゴジラとムートーが、人間の思惑とかほぼ完全に無視して、動きまくります。
災害の前では、あまりに無力ですね。うん。
それでもこの映画はハッピーエンドです。
ゴジラがムートーを倒したからハッピーエンド? 何言ってんですか。全然違いますよ。
ゴジラとムートーが散々暴れ回り、町が破壊され、多くの犠牲者が出て、それでも救助活動がなされ、多くの人が助けられ、避難場所で再会が叶った主人公たち家族の様に、人々が前を向いているからハッピーエンドなんですよ。
これを私は「災害の前では私たちはあまりにも無力だけれども、それでも助け合って前を向いていく、そこにしか希望はないんだ」という強いメッセージだと受け取りました。
もうね、このメッセージを、怪獣映画のフォーマットで、できるだけわかりやすく伝えることに細心の注意を払いながら、作った。
もうね、大絶賛ですよ。


最後にひとつだけ、印象に残ったシーンを。
ゴジラとムートーを、核兵器を餌にして太平洋の沖合に誘き出し、そのまま核兵器で葬り去ろうという作戦に渡辺謙演じる芹沢博士は強硬に反対し、やがて博士の父親が広島の原爆で亡くなっていることが判明するのですけどね? その芹沢博士の対案と言うのが「ムートーをやっつけてもらおう。ゴジラを利用しよう」というものなんです。
その是非はさておき、これはかなり強烈な反原発自然エネルギーへの転換を訴えたメッセージですぜ、これ*2



ごめん、最後つったけど蛇足でもう一個だけ。
あのヘリが飛んでくるのは、アメリカならではですよねー! 日本だったらあのヘリは飛んでこないよ! 絶対!

*1:音響定位。超音波を発してその反射をとらえることでソナーみたいな感じで周囲の様子を探るというアレです。動物ではイルカとコウモリのそれが有名

*2:どうでもいいことですが私自身は、何十年スパンで原発をなくしていく計画を立てた上でその間のつなぎで一部の原発再稼働ってな流れにならないかなぁ、とか思ってます

自動販売機の不可能性について

人工知能に関するトピックの一つにフレーム問題と言うものがある。
ウィキペディアの当該項目(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%95%8F%E9%A1%8C)から引用すると
「フレーム問題(フレームもんだい)とは、人工知能における重要な難問の一つで、有限の情報処理能力しかないロボットには、現実に起こりうる問題全てに対処することができないことを示すものである。」

同じようなことが小売業についてもあてはまる。
ゲームなどが顕著だと思うのだが、昨今のゲームは色々と複雑化しており、店頭において全ての注意点を説明することなど不可能に近い。
あなたの家のテレビにHDMI端子がついているかどうかなど我々店員には知りようがないし、あなたが買った初回限定盤CDについているのがDVDではなくブルーレイで自宅の機器では再生できなかったからと言って開封済の限定盤を返品に来られても困るのである。
そして、なぜだか知らないがそういう人に限って、なぜか怒った状態で店にやってくる。
店側は説明をするのだが、その後には必ずと言っていいほどこのような言葉を浴びせかけられる。
「そんなこと説明しなかったじゃないか!」
かくして商品購入前のお客さんに説明する項目が一つずつ増えていき、レジでのオペレーションが複雑化していくのである。このように、店頭での接客と言うのは「どこまでを説明するか」というフレーム問題と密接に関連しており、人工知能では対処しがたい。
翻って自動販売機である。自動販売機でも商品を顧客へ販売しているという点では同様であるので、商品に関する事前の説明もまた必要となるに違いない。
売店での現象は、自動販売機においても商品説明のフレーム問題が常に付きまとう事を示唆するものであり、自動販売機の運営も人工知能では困難であると考えざるを得ない。
結論として、自動販売機の中には、誰か入っている。