万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

RHYMESTER「Bitter,Sweet & Beautiful」と「ネイバーズ」 或いは大人としてのけじめについて

RHYMESTER「Bitter,Sweet & Beautiful」が7月末に発売になった。
今作は非常にコンセプチュアルなアルバムということで、「コンセプトアルバム」という言葉から連想されるような具体的なストーリー設定があるわけではないが、かなり明確な意図をもって楽曲が作られ、また配置されたアルバムであるようだ。そんな中、アルバム通してのメッセージが強く打ち出された楽曲ではBACHLOGICやMummy D、DJ Jinといったメンツがかっちり固め、予想外の展開を見せるような……いわばライムス自身が言うところのNew Accident的な楽曲では大きくフューチャーされたPUNPEEが大活躍している。おっちゃんな、もうバイタリティが乏しくなってるもんで最近のシーン全然詳しくないんだ。だもんで、正直最初はPUNPEEの楽曲に違和感が拭えなかったけれども、繰り返し聞いているうちに好きになりつつあるでよ。


でね、ライムスのインタビューも各所で展開されているし、公式サイトでも自身による全曲解説が掲載されている。んで、このインタビューが分かりやすいかなと思うのだけれど

RHYMESTERがもの申す 「ダサい」方向に進む現状に異議アリwww.cinra.net

―アルバム『Bitter, Sweet & Beautiful』のテーマは「美しく生きる」。これはどういう経緯で生まれたものなのでしょう?

宇多丸:そのキーワードは最初からあったんだよね。まず集まって飲みながらどういうアルバムにしようかざっくばらんに話したんだけど、アダルトでメロウな感じの音でいきたいっていうのと、もう1つはヘイトスピーチの問題が取り沙汰されるようになった時期というのもあって、「いつから日本はこんなことになっちゃったんだ」と感じていて。そういう風潮に対するカウンター、大きく言えば不寛容というものに対する有効なカウンターとは何か、と。そういう現実を踏まえた上で、酸いも甘いも込みで、せめて美しく生きようとすることはできる、みたいなことは言えるんじゃないかって。

Mummy-D:美しく生きようというのも、別に崇高な美しさとかじゃなくて、「ダサいのはダメだよ」くらいの意味なんだよね。「きらびやかな生活、グラマラスなライフを送ろうぜ」という意味ではない。ヘイトスピーチもそうだけど、「それはダサいじゃん」って。「せめて美しくあろう」と。その「せめて」がつくんだけど、それだけは間違ってないはずだよね、というコンセプトは最初からあった。

JIN:自分自身、正しさとか正義の危うさについて考えることもあったので、「美しくあろう」という話が出た時には、「そうそう!」と思いましたね。実際はタイトル曲(“Beautiful”)がほぼ最後にできた曲なんですけど、そういう経緯も含めて太いコンセプトだったんだなと思います。


ライムスと「ヘイトスピーチ」というと、どうしても避けては通れない曲がある。前々作「POP LIFE」に収録された「ネイバーズ」だ。


ザ・ネイバーズ - YouTube

歌詞はこちらhttp://www.kasi-time.com/item-52782.html


かなりコミカルな曲調で、ダブルミーニングや皮肉たっぷりで中国を揶揄したある意味ライムスらしい曲なんだけれども、上記インタビュー内で言及されたテーマを扱うのなら、この作品がメンバーの脳裏に浮かばなかったわけがない、と思うのである。
というか、このアルバムは自分たちの過去の作品である「ネイバーズ」に対するケジメ、その克服である一面があるんじゃないかな、などと。

近年、ライムスの楽曲には政治的なメッセージが込められていることが多い。震災前に作られたにもかかわらず震災後の心情にあまりにフィットした、シリアスな情勢の中で音楽が持つ力について高らかに歌い上げた「そしてまた歌いだす」。様々な情報や誹謗中傷が渦巻く中で自分で調べ、考え、選択するんだという熱いアジテーションであるところの「The Choice is yours」。幼児虐待問題について、親だけではなくコミュニティの問題として捉えなおすべきだという「HANDS」。そしてアルバム丸ごと使って寛容であること、Beautifulであること……この「beautiful」という言葉をどのように「和訳」するかは悩ましい問題だ。個人的には「気高さ」「高潔さ」に近いところだと考えるが……を前面に打ち出した今作。
ただ、このような楽曲群の中で「ネイバーズ」は浮いてしまっているように感じる。発表されたのは2011年。まだヘイトスピーチはそんなに問題になっていなかったし、その実態はどうあれ日本の右傾化がトピックに挙げられることも今より少なかった。
楽曲としては愉快さや痛快さが楽しめる、むしろ好みの曲なんだが、政治的な問題に対する態度、アティチュードを扱った楽曲群に対して、「ネイバーズ」は表層的なトピックを笑い飛ばして終わってしまった感がある。
それもライムス自身が曲で言及しているように「このふざけた世界を笑う」行為であり、「あり」か「なし」かでいえば圧倒的に「あり」であるところの在り方なんだが、今のライムスの方向性とは、ちょいと、不整合に思えるんだな。

逆に、ですよ。過去に「ネイバーズ」を発表していなければ、ここまで意図的にメッセージ性を持たせたアルバムを作ることはなかったんじゃないか、と。
自分たちの過去の作品・言説を乗り越えるには制作に2年半かけてアルバム一枚丸ごと費やすほどの労力が必要だったんじゃないか、などと。
そんなことをつらつら考えながらヘビーローテーション中です。はい。個人的には9曲目「ガラパゴス」から12曲目「人間交差点」にいたるまでの流れが、もうね、たまんないっすわ。

ケン・リュウ「紙の動物園」/分断と断絶/せめて慰めくらいは

話題作、ケン・リュウ「紙の動物園」をようやく読了した。素晴らしい出来。テーマが重い作品も多く、NHKの「映像の世紀」を見た時のようなシリアスな読後感。
おそらく、それは史実や戦争、紛争、社会問題を扱った作品が多いことにも起因しているだろう。そして収録作品の多くが「分断・断絶された/されていることの哀しさ」を描いている事にも。
表題作「紙の動物園」は親(の世代)との、そして移民と「アメリカ人」との断絶であろうし、「文字占い師」は自国民同士の断絶・分断だろう。殊に「世代間の断絶」というモチーフは短編集全体を通して何度も姿を見せる。
とはいえもちろんそればかりではない。ニヤリとするようなアイデアストーリーも収録されているし、ヒューゴー賞受賞作でもある「もののあはれ」は逆に「断絶しないこと」の重要性をテーマにしてるとも読める(「断絶」というテーマが共通しているので仲間とも言えるけれども)。
ともあれ私が素晴らしいと心打たれたのは、「救いはない。が、慰めはある」といった趣の話が多いところだ。
せめて慰めくらいは、というのが大衆娯楽たるジャンルフィクションの素晴らしいところだろう。
ちなみに、ここから慰めすらも取っ払ってしまうと、ティプトリーの作品群になる。

ちおん舎 新・染屋町寄席

13日。京都へ。ちおん舎 新・染屋町寄席。弥っこ…子ほめ、二乗…ふぐ鍋、染左…寝床、二乗…天神山。

弥っこさん、初めて聞いた。少々口跡に怪しい所もあるが、見た目は細いのにもっちゃり系で、テキストを自分の腹の中にきちんと入れているのがわかり、好感。面白かった。ツッコミの被せが素早いのが印象的。

二乗さんふぐ鍋。ふぐ料理店でアルバイトしていた時に常連で親分さんが良く来ていて、その護衛の若い衆との交流があったという、長いが楽しいマクラ。噺に入ると弾け気味。仕草も大きく、ふぐ鍋を食べそうでなかなか食べないシーンでは高座から前に身を乗り出す熱の入り方。客席から拍手が起こる。米二さんはモノトーンなら、二乗さんはカラー。デッサンは師匠譲りでしっかりしているわけで。でもふぐ鍋についてはなんか吉朝一門っぽかった。

染左さん、寝床。マクラで「二乗さんは丁寧を通り越して卑屈」というところで拍手。「そうだそうだ」ということか(笑)。もちろん、その頼りないところが個性であり魅力でもある。噺本編、普段聞きなれているのはやはり米朝師匠のテキストであるせいか、違う所が多くそれが楽しい。冒頭の丁稚と旦那さんとの攻防戦がおかしく、旦那さんが徐々に機嫌を直していくところもお見事だった。

トリは天神山。2~3度しかかけていないおろしたてのネタだそうで、これから良くなっていくのだろう。丁寧。狐を助けた後の狐に話しかけるシーンが優しい。先日聞いた千早ふるでもそうだったが、「優しさ」というのが二乗さんの噺ではちょこちょこでてくる。

良い会だったのでモスバーガーとラーメン屋で飯食いつつ余韻を楽しみ、帰宅後、艦これ。本日のメンテナンスで摩耶様が改二。かわいい。あとホワイトデー限定ボイス、羽黒のボイスが破壊力がある。

須藤真澄「グッデイ」/史上最強の「ファンタジー」

誰しも生きていくにはファンタジーが必要だ。現実だけでは生きていけない。
ほんのひとかけらのファンタジーを支えに、私たちは今日も生きている。



「グッデイ」は長年、良質のファンタジーやエッセイマンガを描き続けてきた須藤真澄の最新刊だ。
帯に粗筋が書いてある。過不足なく見事にまとまっているので引用しよう。

『玉迎え』とは、体の寿命で亡くなる人の体型が、
その前日から球体に見える状態をいいます。
玉迎えは、15歳以上の人が任意で服用できる『玉薬』を
飲むことで見えるようになります。
亡くなる人と、玉迎えが見える人の組み合わせは、
世界でたった一組のみ。
だけど、もし0.0000……X%の確率を越えて、
出会うことができたなら……。

本書では様々な「玉迎え」が書かれる。家族に「玉迎え」の姿が目撃される者、玉迎えを迎えた見ず知らずの老人のために東奔西走する者、玉迎えとなったのになんかクールな目撃者の様子に拍子抜けする者、ひとり孤独に病院のベッドで玉迎えとなる者、エトセトラエトセトラ。
本書のファンタジー要素、道具立てとしてはこの「玉迎え」という現象のみだ。



冒頭に、誰しも生きていくにはファンタジーが必要だと書いた。そのファンタジーとは「玉迎え」のことではない。


「玉迎え」は道具立てに過ぎない。
その結果もたらされたもの。それこそが生きる糧となる「ファンタジー」に値する。


では、その「もたらされたもの」とは一体何か。
作中では様々な形をとっている。家族の精一杯のもてなしに満足げに呟く姿であり、自分が亡くなることを知り身辺整理を済ませていつも通りに就寝する姿であり、世の中に冷めてしまった目撃者に対して鼓舞するかのように思いのたけをぶちまける死にゆく者の姿であったり、様々だ。
その様々な「死」の在り方に共通する点がただ一つ。


それは、誰一人として、孤独のうちに亡くなってはいないという事だ。


そう、誰も孤独ではない。須藤真澄は、病院のベッドで一人横たわっている老人にさえ、孤独であることを許さない。
誰一人として、孤独のうちに亡くなることなどないのだ、あってはならないのだ。一見孤独に見えたとしても、必ず誰かがあなたとつながっているのだという、実に非合理的で、とてつもなく力強い信念。
それこそが本書の中核をなす「ファンタジー」であると、そのように思う。


誰しも生きていくにはファンタジーが必要だ。現実だけでは生きていけない。
ほんのひとかけらの、非合理的な信念を支えに、私たちは今日も生きている。
「グッデイ」は、これまで読んだ中でも最上級の作品だった。

為末大さんの古典的なHIPHOPに関する無理解に対してひたすらRHYMESTERのリリックを引用する

為末大さんがtwitterでこんなこと言って炎上している。この手の言説ってまだ絶滅していなかったのかと、懐かしささえ感じる。
HIPHOPに対するこの手の批判は黎明期から言われまくっており、それに対する反論もされまくっており、そういう見方する人は随分減ったかと思ったら、まだいるものなんだなー。
ここはひとつ、RHYMESTERのリリックを引用することで、そういった批判に対してラッパーがどのように反論してきたか、見てみようと思う。


EGOTOPIA

EGOTOPIA

  • RHYMESTER
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥1833

まず95年発売のアルバム“EGOTOPIA”より、どんなHIPHOPに対して批判がなされていたかについて。

「ヒップホップとかラップとかって
マニアック マニアックや~ん」

マニアック オタクならとにかく
「苦手なの」ってホザく

「バンドやってんだ? 楽器弾けんだ?
え? 楽器できないでバンドやってんだって?」

(悪趣味節)
この「悪趣味節」の中ではこれに対する反論としては「うっせーバカ!」以上の内容は言っていないのだけれど(笑)。


リスペクト

リスペクト

  • RHYMESTER
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥1833

99年リリースの名盤“リスペクト”だが、振り返ってみるとこのアルバムでは批判に対する反論はあまりなされていない。むしろ自分たちの立ち位置の確認と表明、シーンの現状の確認といったものが多い。
それでもこんなリリックがあったりする。

体突き動かすアフリカンビーツ×日本語ラップ+缶ビール
探し出す自分の方程式 正解は誰も見た事ねえ景色
例えばイタメシ パスタにタラコ足したメニューが定番と化した
ごとく日本の歴史上に 残すべきもの作った生き証人
まさしく先見の明 教訓1はズバリ ファック世間の目
井の中の蛙 海に出ても生き残ってやる必ず

(リスペクト)
このように、99年の段階で自分たちの取り組んでいるものがアメリカのコピーを目指したものではないことを鮮明にしているわけだ。

https://itunes.apple.com/jp/album/uwasano-zhen-xiang/id570100868?at=10l8JW&ct=hatenablog

そして01年リリースの“ウワサの真相”。アルバムのタイトル曲ともなっている「ウワサの真相」が、かなりキツい調子での反論となっている。

いわく「日本にHIPHOPは根付かねえ! 日本人がラップするとはイケスかねえ!
何の意味がある? この尻軽! 所詮無理がある!」

この「現場」以外に「本場」なんてのは存在しない
外野の野次は聞くにほとんど値しない
コンプレックス マジ脱したい?
なら他人の評価なんてのはそれこそ時代次第
てめえにしか託せねえだろプライドは
ワケがあんだよ このデカイ態度は
モニターに映る文字とかよかずっと確かな
オレの過去 そして明日だ

(ウワサの真相)
外野の言説よりも自分たちが積み上げてきた実績、これから築いていく実績の方がよほど価値があるという明快なメッセージだ。


https://itunes.apple.com/jp/album/gureizon/id569967934?at=10l8JW&ct=hatenablog
そして04年リリースの“グレイゾーン”。ものすごく密度の濃いアルバムで、もう大傑作であるが、リリース当初はレーベルゲートCDだったんだよねぇ……今はCDDAでも出直してますが。

オレの名前はトーシロ 良く聞きな道行くトーシロ つまり同志よ
素晴らしい音楽史のパラサイト ヒップホップはまだくたばらない
オレの時代が終わっても このブームが去って明後日にもゴミ箱漁っても 電気すらなくなっても
最早止められないこのアートフォーム

(ザ・グレート・アマチュアリズム)
一過性のブームが去ったとしても、既にHIPHOPは根付いているんだという、根付かせようと奮闘してきた彼らからしてみたら勝利宣言みたいなものかもしれない。


んで、為末さんこんなことも言っているんだが


これに関して、一刀両断ともいえる回答がこちら

オレの仕事は本場モンの翻訳じゃない

(グレイゾーン)


そしてこれ以降はそういったテーマを扱う事もなくなり……とか思ってたんだけど、まだまだやっているね、振り返ってみると(笑)

https://itunes.apple.com/jp/album/heat-island/id570101463?at=10l8JW&ct=hatenablog
06年リリースの“HEAT ISLAND”収録、曲名がズバリ“WE LOVE HIPHOP

キミらなんとも嬉しそうに言う「音楽はスバラスィ~!」ってその理由
「なんていうかラップとかヒップホップなんていうワク ラクに飛び越してるゥ~」
ヘイヘイ こいつはカチンとくる
悪気はねぇんだろうし まあまあ、そこは人徳
怒りゃしないがバシッと言っとく その欺瞞に泣くときがきっと来る」

まぁまぁ 分かる気もすんだよ アンチの気持ちも
ヤラれちゃってなきゃ あん時もしも オレも同じくdisしたかも
「徒党組んでハードコア気取るポーズ キモ~イ!」
だけどやっぱさぁ んな上っ面だけじゃねえんだ ヒップホップやラップは

(WE LOVE HIPHOP)
自分たちは未だにHIPHOPにこだわっており、批判は上っ面の物に過ぎない、というわけだ。


さすがにこれ以降のアルバムではHIPHOPを擁護する曲はなくなり(というか、もはやその必要性を感じていないんだろう)、社会的なメッセージが増していくのだけれど、今のところの最新作“ダーティサイエンス”収録曲から最後に少しだけ引用を。

オレは夢見る キミは夢見る
夢の無い時代に産まれても
今日の絵空事で明日を変えろ

(ゆめのしま)


多くのアーティストたちが夢を見て、その夢にまたニューカマーたちが夢を見て、現在もまだ夢を見つづけているわけで。
為末さん、例示としてHIPHOPを出したのは、はなはだ不適当でしたね。

MikuHop LPの感想(大変気に入っています)

先日ダウンロードしたアルバムを大層気に入ったので、簡単に感想を書いておこうと思う。
f:id:banraidou:20140710202950j:plainhttp://stripelesslabel.tumblr.com/post/96258100680/mikuhop-lp-release
http://stripelesslabel.tumblr.com/post/96258100680/mikuhop-lp-release

”MikuHop LP“なるこのアルバム、上記URLより無料ダウンロードできる。いわゆるボーカロイドを使用したHIPHOPコンピレーションアルバムだ。
13曲入り。まるでレーベルのショウケースのような感じで、収録されている曲調は実に様々だ。アンダーグラウンド臭漂う曲から始まって次第にポップになっていき、終盤に向けてまた実験的になっていくという作りになっている。
個人的には、目新しさよりも好意的な意味で既視感を感じたアルバムだった。これをボーカロイドでやっているという意味では確かに目新しい部分はあるのだけれど、「ボーカロイド」というくくりを外すと、そこに広がるのはあの日聞いて首を揺らしていた音楽たちをしっかりと引き継いだ曲たちだ。
例えば1曲目の”It's da MIKUHOP”。ボーカロイドによるビートボックスの再現という実験意欲旺盛な作品だが、注目したいのはそのリリックだ。極めてシンプルで聞き取りやすいフロウに載せて語られるのは、アルバム及び曲名に冠された”MikuHop”というものがどういうものであるかについての自己言及。リリック内の”MikuHop”を"HIPHOP"に置き換えてみてほしい。日本語ラップを確立しようと奮闘してきた先駆者たちがリスナーにHIPHOPとはどういうものであるのかを示そうとしていたあの自己言及と重なりはしないだろうか。
例えば3曲目の”ミッキーマウス”。収録曲の中ではおそらくもっともアングラ臭溢れる曲であり、ラップ的にも最もとんがっている(ちなみに、このアルバムにはインスト曲も多い)が、この印象的な裏返る様なフロウにも、Commonの1stアルバムやAkinyeleの諸作と言った先駆者が存在する。
例えば4曲目の”灯”。birdとかTinaとか嶋野百恵とかShowleeとかもっと流行ると信じて疑わなかったんだよ、畜生! まあ、御存じのとおりヒットチャート的およびシーン的には安室奈美恵に代表されるように、それよりちょっとだけ後のUSにおけるR&Bの影響を受けた歌姫ばっかしになっちゃったんだけどさ。
まあ、こういったことをぐちぐちと書いて行ってもきりがないのでここら辺で止めておくけれども、指摘しておきたいのはHIPHOPに呪いみたいにまとわりつき続けるマッチョイズム(ハードコアと言い換えてもいい)、およびボーカロイドのキャラクター性、また支持を集めている既存のボーカロイド曲の特徴として指摘されるストーリー性といった諸要素から、このアルバムに収録された楽曲たちは自由だということだ。
唯一の例外が7曲目の”放課後はライムマスター”。この曲はボーカロイドのキャラクター性に依っていると言えるが、この曲にしても使用しているボーカロイド蒼姫ラピス、マクネナナ、メルリですよ。決してメジャーとは言えない。キャラクター性を生かすのならもっとメジャーなキャラ使っておけばいいってな話なんだけれど(笑)。
そういったわけで、このアルバムは、既存の素晴らしいHIPHOPやその周辺の音楽をいっぱいに吸収して、それをボーカロイドを使うという形で表現しつつも、HIPHOPボーカロイドにいつの間にか付随してしまっていたいくつかの要素から自由に離れてみせた曲が多く収められている、と言えると思う。
そういった曲が公開されるのはこれが初めてではない。このアルバムに参加している人たちも以前から複数の曲を公開しているし、このアルバムに参加はしていないがニコニコ動画で多くの再生数を稼いでいる楽曲もある(ぱっと思い浮かぶのはショミさんかなぁ)。しかし、そういった曲をまとめることで緩やかなコンセプトを提示して見せたこのアルバムは、私にとって非常に好ましい意義を持つ。


ここまできたら触れないわけにもいかんか。えーと、このMIKUHOP LPに対するdis曲と言うのも公開された。



私は二つの理由でこの曲が好きではない。一つ目の理由はまさに上記の要素、ハードコアのマッチョイズムとボーカロイドのキャラクター性に依存した曲であること。二つ目の理由は、単純にカッコ悪い曲であること。

さらに、これに対するアンサーも公開されている。

私は、単純なカッコよさでこちらの方に軍配を上げるが、あなたはどうだろうか。

笑福亭たまさんがホームゲームで危険球を投げる


足の怪我もよくなったので、8月31日に久しぶりに落語を聞きに出かけた。高津宮は高津の富亭でこの8月に14日間開催された高津落語研究会特別講演の最終日、千秋楽という奴だ。
野球やサッカーなどでホームとかアウェイとか言うが、完全なるホームだった。とはいえこのホームと言うのはこの高津の富亭で毎月「高津落語研究会」として勉強会を開催している4人(敬称略で桂南天、笑福亭たま、桂ひろば、桂雀五郎)が作り上げたものだ。毎月の積み重ねで支持を広げ、8月に14日間公演というお祭り(しかもそれぞれの演者は14日間別のネタをする)を仕掛けた。千秋楽が盛り上がらないわけがないのだ。あの高津の富亭になんと77人の入り。
番組は
雀五郎……初天神
ひろば……上燗屋
南天……代書
たま……三十石
大喜利・抽選会

となっている。4人がそれぞれに見ごたえ、聞きごたえのある高座で、もう楽しくて仕方なかったんだけれど、それはやはり客席に漂うホーム感というのもあるだろう。客席もだんだんノってくるのだ。
特筆すべきはたまさんの「三十石」だろうか。どちらかと言うと風情を楽しむような話として演じられることが多い「三十石」だが、それを見事にぶっ壊して爆笑譚、というか艶笑噺にしてしまった。これもホームでしかできないチャレンジだろう。仮にだけれど例えば繁昌亭の昼席でやったらおそらく客席はドン引きすると思う。
聴いている最中はそこまで気が付かなかったのだけれど、たまさん、マクラでは「学校寄席に行って、演目や落語の中で使われる言葉について教育上ふさわしくないからと言う理由で自主規制を求められた」という話で笑いを誘っていたのだけれど、あれ、「だから今日はもう思いっきり危険な事やるよ」ということだったんだな、多分。
素晴らしかったのが、最後の抽選会も盛り上がったことだ。だいたいこういう抽選会って途中で結構ダレたりするんだけど、なんと最後に14日間のネタを書き出して会場内に貼ってあったネタ帳を争奪するべくジャンケン大会に突入したのだ。終演後にもう一回ヒートアップして終わるという。会の後味としては最高だった。