Someting Orange 終わる物語と終わらない物語
平和の温故知新@はてな-終わる物語と終わらない物語
小説、コミック、アニメ、媒体を問わず物語を愛好する人なら一度は思いをはせた事があるであろう大問題。
物語は基本的には終わるものであると思うのだけれど、古今東西、終わらない物語というのも存在しているみたい。鬼平犯科帳であったり、ペリー・ローダンであったり、先ごろ復活したエルリック・サーガであったり。探せばもっと色々出てくるに違いない。そういや、「ドラえもん」も終われなかった物語に入るのかな? 他にはグインサー……いや、なんでもないです。
で、連想したのが(最近グールドばっかりでちょっとアレだが)スティーブン・ジェイ・グールドの「時間の矢・時間の環―地質学的時間をめぐる神話と隠喩」という本。てか、この本自体は未読なんだけれども(笑)。ついでに「時間の矢」「時間の環」という概念はグールドの専売特許でもない。
まあそれはそうと、「時間の矢」というのは時間を不可逆的なものとして捉えた考え。一度起こった変化はもう元に戻ることはない。どんどん変化。思いっきり不可逆的。
「時間の環」というのは、時間を同じ変化が繰り返していくものとして捉える考え。物事は様々に変化していくけれども、基本的には同じ状態へと復帰していく。嗚呼、太古の昔より緑は芽吹き魚は泳ぎ鳥は囀り波は浜へ打ち寄せエトセトラエトセトラ。時間を繰り返しとして捉えるので、可逆的と言えなくもない。
「終わる物語」と「終わらない物語」では、作品内でどちらの時間の捉え方を採用しているのか、ということも反映されているのではなかろうかと思った次第(もちろん、実際の認識がこの二つにくっきり分けられるわけではないだろう。この二つの認識が分かちがたくミックスされたものが私達の「時間」に違いない)。
多くの物語は、対象に起こった変化を描いていくものだけれども、その変化は、もう元には戻らない不可逆的なものなのか、やがては常態に復帰していく不可逆的なものなのか。
ふと思ったんだけれど、ドラゴンボールとこち亀を比べてみると面白いかもしれない。
こち亀は「時間の環」の代表みたいな感じがするわな(笑)。どんなことがあっても大抵はいつもの日常に復帰していく。
一方ドラゴンボールは、基本的には終わる物語の構造を備えていた。なんか悟空はでっかくなっちゃうし、子どももできちゃうし、最初は大きな、いわば超越的な存在であったドラゴンボールも価値がちょっと下がっちゃうし。人間関係のみならず、作品内における世界観の変更までやっちゃった、もう不可逆的な変化しまくりの物語だった。
上述Something Orangeでid:kaienさんが「終われない物語」について言及しているけれども、ドラゴンボールがその好例なのは、まあ、言うに及ばずだろうけど(笑)。
様々な物語が様々な社会的要請によって「終われない」としても、その物語がこち亀やドラえもんのように「時間の環」の概念を採用しているのか、それともドラゴンボールのように「時間の矢」の概念を採用しているのかで、作品や作者に対する負担や、読者の受け止め方が違ってくるということなのだろう。
長編シリーズが短編シリーズとして存続していくというのも、不可逆的な時間の矢から任意の時点を切り取ることが出来るという、時間の不可逆性を回避する方法なのだなと思ってみたり。
というわけで、考えても結論が出る類の話ではないので、だらだらとしたままこのエントリは終わるのであった。