万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

「聲の形」の感想/本作における「罪」/地獄

「映画 聲の形」3回ほど見てまいりました。今まで見た映画の中でも、重さはトップクラスです。まだ見ていないという方は覚悟を決めてごらんになることをお勧めします。
以下、思ったことを書いていきます。ネタバレしますので、まだご覧になっていない方は読まないようにしてください。




本作で扱われるのは、おおざっぱに言いますと罪と償いと赦し、であります。
なぜこんなに視聴後の気持ちが重苦しいのかというと、観客は自らの犯してきた罪に直面させられるからです。



……なんか、2行で結論が出てしまった気もしますが、せっかくなのでもう少し書きます。
本作で描かれる罪とは何か。表面的には二つ。
「ろうあの少女に対するいじめ」と「ろうあの少女が転校しいじめが明るみに出たのち、そのいじめの首謀者に対して行われたいじめ」です。
では、この作品が「いじめダメぜったい」という作品かというと、いや、確かにその通りではあるんですが、もう少し残酷です。
本作ではそのいじめはどうして起こったのか、どのようにして始まったのかまで掘り下げているからです。
作中では、その原因をディスコミュニケーションに求めています。
言い換えますと、本作はディスコミュニケーションを「罪」であると規定しています。


これのなにが残酷かと言いますと、このように規定することによって、登場人物のほぼすべてが罪を犯した、もしくは犯していることになるからです。
純粋ないじめの被害者であるヒロインの西宮硝子ですら、この罪からは逃れることができません。彼女のディスコミュニケーションが、彼女がコミュニケーションを諦めてしまったことが、大きな悲劇へつながります。


本作はまるで地獄のようです。
小学生の「いじめ」が描かれますし、その後に待ち受ける大きな悲劇も描かれます。それはもう丁寧に。
どうしてそれが地獄のようかと言いますと、それらの始まりには悪意が存在しないことが、これ以上なくはっきりと示されているからです。
それどころか、中盤の展開は善意の暴走と言えます。
言い古された例えですが、地獄への道は善意の煉瓦で舗装されているというわけです。
正直、なにもこんなに鮮やかに示さなくてもいいじゃないかと思いますが。辛くて仕方がない。


罪がディスコミュニケーションなら、救いはコミュニケーションです。
コミュニケーションによって、ほのかではあるけれどはっきりとした希望が示されたところで、この映画は終わります。


本作では複数のいじめが描かれますが、その加害者と被害者の和解プロセスのうちの一つが解決したところでこの映画は終わる、と言い換えることもできます。
残りの和解については、まだ進行中。


いやね、本作、何が一番きついかというと、ディスコミュニケーションは罪であるという規定に、観客も巻き込まれてしまうところです。
身に覚え、あるでしょう? 私はありますよ。


本作は、主人公がようやく自分を赦したところで終わるとも言えます。
間違えてはいけないのは主人公は「自分が過去に犯した罪を赦した」のではなく「自分自身に生きていくことを赦した」に過ぎないということです。

なにがきついって、このラストがそのまま観客の首筋に押し当てられるところです。
「で、お前は自分自身が生きていくことを赦しているのか? それに見合う償いはできているのか?」


正直ね、大傑作だしハッピーエンドですが、過去にうつやってる人にはお勧めしませんわ……本当に、地獄のような作品です。