万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

勝手にSFだけでハヤカワ文庫100冊 その9 Everybody Loves Cyber Punks?(61〜68)

と、いうわけで、80年代に華麗に登場したサイバーパンクは瞬く間に燃え広がり、SFを席巻した。


……のか? 本当に?


サイバーパンクはすごかった。それは確か。多くの才能を輩出したし、多くの影響をもたらしたし、それに続く作品や、他の作家が便利に使えるガジェットも生み出している。
生み出しているのだけれど、現状を見るに、サイバーパンクは非常に刺激的な傍流にとどまったのではないか、という思いがあったりするのだ。
前のエントリから孫引きすると

サイバーパンク運動の提唱したことを簡単にまとめると、SFにおけるサイエンスってのを復権させようぜってのがひとつ。で、そのサイエンスやらテクノロジーやらってのが一部の特権的なものではなく、もっと日常に入り込んだ、社会に密着した、市井にまみれた様を書いていこうぜ、ってのがひとつ。

イメージとして、扱うサイエンスがサイバネティクスやIT技術に偏ってしまったというのがひとつ。
これはあくまでイメージの問題であって、実際には、例えばギブスンとスターリングの共作短編「赤い星、冬の軌道」なんかは宇宙開発をテーマにしていたりするんだけれど。
つまり、SFにおけるサイエンスの復権の「サイエンス」には、当然さまざまなものが含まれてしかるべきなんだけれど、図らずも特定の分野のサイエンスに脚光を当てるようなイメージがついてしまった。
もうひとつ、サイエンスが普及した社会を描く際に、サイバーパンクと呼ばれる作品では市井の人々、場合によってはアウトロー的な人物を中心に据えることが多かったのだけれど、必ずしも視点を市井の人々やアウトロー的人物に限定する必然性はない。
つまり、サイエンスを意識したSFを書く際の語り口を意図せずして狭めてしまうんだな。これもあくまでイメージの問題なのだけれど。
要するに、サイバーパンクが問いかけたものは重要であり、それに答えた作家も多かったけれど、その理念に答えるものを書くためには、必ずしもサイバーパンクのマナーに従う必要はないわけで。
実際、サイバーパンクが流行った時代やその前後にも、サイバーパンク的とは言えない力作が多く書かれている。


61・「ブラッド・ミュージック」グレッグ・ベア
62・「エンダーのゲーム」オースン・スコット・カード
63・「リンカーンの夢」コニー・ウィリス
64・「スタータイド・ライジング」デイヴィッド・ブリン
65・「竜の卵」ロバート・L・フォワード
66・「ドクター・アダー」K・W・ジーター
67・「テラプレーンジャック・ウォマック
68・「キャプテン・ジャック・ゾディアック」マイクル・カンデル


「ブラッド・ミュージック」のグレッグ・ベアは、サイバーパンク宣言(そう。若手作家が俺達はサイバーパンクだと威勢のいい会見を行なったのだ)のメンバーに名を連ねていたのにもかかわらず、その場でむしろサイバーパンクに対して否定的な発言をした事で知られている。
そんなベアの「ブラッド・ミュージック」はサイバーパンクSFとして紹介されることもしばしばある。科学者視点から、生物学・遺伝学テーマで、意志を持つ赤血球という驚愕のテーマを扱ったパニックノベルの傑作。
この作品を、サイバーパンクの多様性を示す作品と捉えるか、それとも同時代の非サイバーパンク的な作品として捉えるか。個人的には後者として捉えている。このあと、ベアは力作をどんどん発表していくわけだけれど、「永劫」「久遠」「天空の劫火」「火星転移」「女王天使」「斜線都市」「ダーウィンの使者」といった作品群がサイバーパンクと捉えられたことはあっただろうか?*1 むしろサイエンスをも守備範囲に収めた、典型的なSF作家と見る人の方が多いのではないだろうか。
ベアがサイバーパンクの影響を受けていないというつもりはないし、サイエンスの要素を重要視した作品も多い。それはサイバーパンクへの返答と見ることももちろんできるだろう。しかしそれはあくまで返答であって、彼自身はサイバーパンクの書き手になろうとしたかどうか。


熱心なモルモン教徒であるカードの作品では、モラル的な要素が重要視されるという指摘をされることが、多々ある。ヒューゴー賞ネビュラ賞を同時受賞しカードの名を高めた「エンダーのゲーム」の中心テーマはまさにモラルのあり方だ。
卓越したストーリーテリングで、未来の寓話としてSFを語るカードの諸作は、サイバーパンクの仮想敵とも言える。実はサイバーパンクの中心人物たちは、理論的武装をするにあたりキム・スタンリー・ロビンスン、ジョン・ケッセル、コニー・ウィリス、ジェイムズ・パトリック・ケリー他、多くの作家を批判している。「ファンタジーの隠れ蓑にしたり文学のダシに使ったり、そんなんばっかりじゃねえか」みたいな感じかな……いまこうやってみると、古株の頑迷なSFファン(いわゆる老害)がいかにも言いそうな感じもする。
しかしだ、SFの文学的機能の高さは、それこそニューウェーブ勢が体を張って証明した事柄であるし、寓話的機能もブラッドベリ「華氏四五一度」やヴォネガットスローターハウス5」「猫のゆりかご」といったすぐれた作品を見てもわかるように、否定することなどとてもできない。


さて、今、名前もあがってきたウィリス。恥ずかしながら代表作の一つである「ドゥームズデイ・ブック」を未だに読んでいないので、代わりに「リンカーンの夢」を挙げよう。ウィリスのストーリーテリングの巧みさはこの長編でも十二分に味わうことができる。南北戦争を、現代の視点、なおかつ南部の視点から語りなおすこの美しいファンタジーは、読者の落涙を誘う。
また、デイヴィッド・ブリンは科学者作家であるのだけれど、あまりハードな側面を真正面に出すことはしない、ある意味珍しい作家だ。「スタータイド・ライジング」は読んでいて実に楽しい現代のスペースオペラ。海千山千のエイリアン達が主人公たちの持つ秘密を狙って攻防を繰り広げるシーンなどは、今思い出しただけでワクワクしてくる。これで、シリーズが進むにつれて本の厚さが増していくことさえなかったら最高なんだが、まあ、それは余談だ(笑)。
この二人も、ある意味伝統的な意匠を受け継ぐSF作家であると言える。


まとめよう。サイバーパンクは新しいものを生み出した。実に有意義だった。
だが、それは元々、当時のSFに不足している要素を補完しようという意味合いが強いものであった。ベアのように、サイバーパンクのマナーに従うことなくそれに答えた者もいたし、自分の得意分野を発展させ続ける者も当然いた。
つまり、サイバーパンクはSFの不足分を補い、うまいことその枠を広げた。そもそもがすべてのSFを変えてしまおうなどという運動ではなかったのだ。
その役割を果たしたサイバーパンクは、その中心人物たちが自ら終結宣言を出す形で、80年代末にその運動を終えた。
その結果、今の私たちは、より広い領域をカバーした様々なSF作品を読んでいる。


と、ここで終わったらきれいにまとまるんだが、そうすると好きな作品がいくつか漏れてしまうので補足的に。
ロバート・L・フォワードは宇宙を舞台にしたハードSFを得意とする作家。はっきり言って話のつくりはかなり古臭く、そういった意味ではあまり評価できないのだが、その作品はプリミティブな楽しさを備えている。
中でも中性子星の上で、ものすごい速さで生きている生物の姿を描いた「竜の卵」が有名。また、ロシュの限界*2の超えた近い距離をまわる二つの惑星での冒険を描いた「ロシュワールド」([asin:4150106274])なども、あのあまりに豪快かつ壮大なクライマックスは大好き。男の子ですもの。


「ドクター・アダー」は、日の目を見ずにいたジーターの処女長編が80年代半ばにようやく出版されたもの。序文は故P・K・ディック。不道徳を詰め込んだピカレスクアクション。ブラックラグーンとか好きな人は波長が合うんじゃないかな?
売春婦に肢体切除手術や性器改造手術を施す非合法医ドクター・アダーが主役、と聞いてときめく人はいないか?
……あ、あれ? いないの? 本当に? こんなに人が死にまくってブラッドバスにつかり放題な上に、ろくな奴が出てこないSFなのに。もったいない。
じゃあ、「グラス・ハンマー」([asin:4150109141])とか「マンティス」([asin:4150405913])とか「結晶する魂」([asin:4150406480])をどうぞ。「マンティス」と「結晶する魂」はSFじゃなくてスリラーだけど。いや、この人ね、ある種の心理描写がやったらうまいんだよ。読んでいるこちらが狂気にちょっと引っ張られるような。


ウォマックの「テラプレーン」は未来史を構成する長編のひとつ。モノトーンが似合う、暗い社会でせめてもの抵抗のように繰り広げられるささやかな物語は、その造語を多用する特異な語り口とも相まって強い印象を残す。「テラプレーン」と「ヒーザーン」([asin:4150109761])が翻訳され、なにかものすごいものの一端を読んだという確かな感触に胸を高鳴らせた……んだが、高鳴らせた人は案外少なかったらしく、この2作だけで翻訳が途切れてしまった。
ただ、ここから先がすごいところでね。胸の高まりを抑えることができなかった一部の読者は、2chmixiといったコミュニティの片隅で、読書会を開き始めたんだよ。
原著で!


「キャプテン・ジャック・ゾディアック」の作者マイクル・カンデルはアメリカにおけるスタニスワフ・レムの紹介とかやっている人。レムを翻訳しようなんて言う人が首までSFにどっぷりつかっていないはずもなく、「キャプテン・ジャック・ゾディアック」にはSFのお約束が、もう一冊、ハヤカワ文庫FTから出ている「図書室のドラゴン」([asin:4150201714])にはファンタジーのお約束がこれでもかこれでもかこれでもかっ、と詰め込まれている。
詰め込まれているんだけれど、いやあ、この人、おそらくものすごく人が悪い。
お約束な小道具をを詰め込みつつ、お約束な展開をことごとく裏切り、病恍惚に入ったファンであればあるほど居心地が悪くなるという、悪意に満ちた作品世界を創造しているのだ。エヴァのガジェットをもっとベタなものにして、庵野監督の性格をもっともっともっと悪くしたような。
「誰に読ませたくてこういった作品を書いたのかわからない」というのは、どこかで読んだんだったか。それとも大学の後輩が言ったんだったか。しかしまあ、こういったものを好む物好きもいるわけで、ええ、もう大好きですとも。

*1:「無限コンチェルト」にいたっては豪速球の異世界ファンタジーだぜ!

*2:二つの天体がこれ以上近づいたら、重力の影響とかでぶっ壊れちゃいますよ! 危ないですよ! 危ないったら! ほら! だから言ったじゃないか! ……という距離のこと