万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

「盤上の夜」/驚くべき世界観との遭遇/エイリアン・オン・ザ・ボードゲーム



宮内悠介「盤上の夜」を読了した。第1回創元SF短編賞において、山田正紀賞を受賞した表題作を収録した連作短編集であり、収録された6編が囲碁、将棋、チェッカー等、いずれもボードゲームを題材にしているという、一風変わった作品である。
囲碁、将棋、麻雀。うむ。地味ながらも良質で緻密な作品である匂いがぷんぷんしてくるではないか。


騙されるな。
本書はあなたの人間観を激しく揺さぶる極上の一発だ。
あなたも、本書を読んで後戻りできなくなってしまうといい。


この連作短編集の冒頭の二編「盤上の夜」と「人間の王」の出来はすさまじい。ゴングが鳴って、直後にいいワンツーを食らってしまったのである。これで喜ばなければMではない。
「盤上の夜」は囲碁、「人間の王」はチェッカー。共にボードゲームと人間がどのようにかかわっているかを解明する話だ
というと、人生の機微とか、そんな事を連想するかもしれないがさにあらず。そこに見える光景の斬新さは衝撃的であった。
人間がボードゲームに取り組むのではなく、その人間が世界を認識するうえでボードゲームの存在が欠かすことのできないものとなっている。そこからボードゲームを排除することは世界の崩壊を意味する。
視覚・聴覚・嗅覚・触角・味覚。天元碁石を置かれることを感覚として認識する人間の世界観を想像してご覧?


副読本として「共感覚者の驚くべき日常」「偉大な記憶力の物語」をを挙げたい。
両書とも普通と少し違った世界の認識の仕方をすることで、結果として異形の(しかし本人にとってはそれが普通の)世界が存在する、そのことについての本なのである。
ほんの少し世界の味わい方が異なるだけで、世界に存在するあらゆるものの持つ意味が変貌する。
そこは同じ世界であって、同じ世界ではない。

エイリアン、全くの異質な知性。これはSFが古くより取り組んできた題材だが(レムはそこで「不可知」だと答えを出した)、いや、感覚を少し違えるだけで異質で豊かな世界への扉は開くのだ。この方向性、実はあまりSF小説の流れでは重視されていなかった気がする。
「盤上の夜」と「人間の王」の2編は、この「少し違っているだけのはずなのにこうまでも異質で魅力的な世界が広がる」という領域を扱った傑作だ。今まで読んだ中で一番それに近い物はテッド・チャンの「あなたの人生の物語」であろうか。個人的にはあれ以上の衝撃だが。


この二編に続く4編では、少し方向性が違ってくる。「ボードゲームなしでは存在しえない世界観・宇宙観」の話ではなく「その世界観をいわゆる『現実』へフィードバックしようとする話」になっている。
「清められた卓」(麻雀SF!)はまだ認知論を扱ったSFとしての香りが残っているが、それに続く「象を飛ばした王子」「千年の虚空」「原爆の局」ではその香りはかなり薄まっている。幻想的な光景も描写されるが、それは心象風景の表現としてにとどまる。
この方向性の転換が、ゴング直後にもらったワンツーの衝撃を和らげている感は正直なところ否めない。だが、確かに方向性としてはそれもあり、というか、そうしないとびっくり人間大集合になっちゃうしな。
かくして、「象を飛ばした王子」「千年の虚空」「原爆の局」では、盤上の世界からやってきた人間たちが苦悩する姿が描かれる。
「象を飛ばした王子」では「なんでこのゲームがわからないんだ!」と主人公は泣き叫び、「千年の虚空」では3人の主人公(だろ?)が三者三様の手段で、ゲームで世界を侵食しようと試み、不幸な結末を迎える。
そして「原爆の局」で『現実』と『ボードゲーム』は和解の様相を見せるが、はっきりとした答えは出ていない。二つの異質な世界観の融合は果たされていない。エイリアンとのファーストコンタクトはまだ終わっていないのだ。
もっとも、ここではっきりした答えを出せ、ファーストコンタクトを終わらせろ、というのは「お前、今後成長しなくてもいいからこの第一短編集で作家として完成しちまえ」というに等しい。無茶な話でもある。だから私は期待する。この先、この邂逅がどうなるのか。
まったく、読者ってのはわがままなものだな。ワンツーもらって喜んでおきながら「アッパーはまだか!」と詰め寄っていく。やはり、Mはこうでなければならない。