龍谷大学アバンティ響都ホール
桂米二独演会
二葉…動物園
米二…ふぐ鍋
米二…三枚起請
中入
酒井くにお・とおる(漫才)
米二…饅頭こわい
もうね、素晴らしくて感動して、しばらく軽い興奮状態だったのだけれど。
米二さんの高座で感動すると、いっつもそうなんだが、いざ褒めようと思うとどう褒めていいのかわからないんである。
うーん、どうしよう。
今まで自分が落語に感動して褒めまくったエントリを振り返ってみよう。どんなところを褒めているか?
少し読み直してみたんだが、やはり「褒めやすい所」を褒めている。
例えば先日書いたそめすけさんの創作落語に関するエントリ(こちら)だと、その果敢なチャレンジ精神。
4月に聞きに行った談春さんの独演会についてのエントリ(こちら)だと、演じられた2席に共通するテーマ性。
雀松さんの「らくだ」に感動したエントリ(こちら)だと、その計算された楽しい高座の裏に垣間見える(と、私が勝手に思っている)冷徹なまでの観察眼。
米團治さんの独演会についてのエントリ(こちら)だと、客席で急病人が出るハプニングと、それを跳ね返すような熱演の間に(これまた私が勝手に)ストーリーを見て、それを語っちゃったりしている。
長々と過去のエントリのステマを繰り広げるのもアレなのでここらでやめておくけれど、そうなんである。そういう、わかりやすい褒め所がなかなか見つけにくいんである。
もっと極端な例を挙げると、枝雀さんの「スビバセンネェ」とかオーバーアクションとか。
今朝、丁度「随筆 上方落語の四天王」(戸田学/岩波書店)という本を読み終わった。
その中で指摘されていたのが、米朝師匠の用いたテクニックとしての「かぶせ」である。一人で何役も演じているのだけれど、まるで一人がもう一人のセリフを遮らんとするような勢いで食い気味にセリフをかぶせていく。
そういったのが頭の隅にあったせいか、、今日の高座を見ていると、ああ、確かに被せている被せている。たっぷりと間を取ったり被せたり。
で、繁昌亭のサイトにある「上方落語家名鑑」で、米二さん自らが寄せているコメントが頭に浮かぶ。
リズム感あふれる落語をやりたい。
ああ、もしかして、これなのかしら。あの、噺の中にぐっと引き込まれるような感覚。
ドラマ的・映像的・演劇的な落語では、観客を登場人物へ感情移入させることで噺の中へと引きずり込み集中力を高めさせるとすると、それを緩急とテンポで実現しているのか。
それに加えて、米二さんの高座は、言わばツンデレであると思う。
基本、ポーカーフェイス。お客様に破顔一笑語りかけたり、愛想を振りまいたりというのはまず見られない。
それが落語に入ると、その向こうに稚気溢れる姿が見えてくる。ポーカーフェイスがなんとも無邪気な喜六に変わったり、すました表情の向こうにツッコミ役の呆れや驚愕が覗いたりする。くっしゃみ講釈では、くしゃみを連発した後の「なにか問題でも?」とでも言うようなすまし顔で、ポーカーフェイスをも笑いに変換する。菊江仏壇では若旦那のほんのちょっとした逡巡で背後に隠れた心理の複雑さを窺わせ、百年目では微妙な口元のほころびと間合いで大旦那の優しさを表現する。たちぎれ線香では……まだ聞いたことないんだよ。ちっくしょう。
ここまで書いてきたことをまとめると、米二さんは上方落語界のツンデレリズムマスターであるということになる。
……これは褒め言葉になっていないのではなかろうか?
やはりなかなかうまくいかない。