2016年10月29日土曜日。テイジンホールへ「桂千朝独演会」を聞きに行く。
テイジンホールは初めて。昭和モダンな感じがして、雰囲気が良い。ただ、トイレがちょっと狭い。
演目は以下のとおり
吉の丞……犬の目
佐ん吉……いらち俥
千朝……地獄八景亡者戯
中入
千朝……ながたん息子
ながたん息子が圧巻だった。ながたんは「菜刀」と書き、菜切り包丁のこと。「弱法師(よろほし)」の異題もあり、桂吉朝師が死の直前に壮絶な高座を披露した演目としても知られるが、私はその高座を聞いたことがない。以前に桂小南師の録音を聞いたことがあるのみで、生で聞くのはもちろん初めてだった。
「百年目」が現代的な視点でもマネジメントに関する落語として評価できるのと同様に、「ながたん息子」も現代的な視点で評価できるのではないかと感じた。発達障害に関する落語として捉えることができると思うのだ。
お店の旦那が引っ込み思案な若旦那を叱責する場面から始まるのだが、この若旦那の引っ込み思案の度が過ぎているのである。でも、こういう人はいる。いるのだ。
自分の意思を表出することができない。それどころか、はっきりとした意思があるのかどうかすら、傍から見るとよくわからない。以前録音で聞いた時には、ただ単に落語らしく誇張された人物として私はそれを捉えた。しかしこの日、千朝さんがきっと目を伏せ、旦那さんからの問いかけに返答するのも容易ではないさまを見て、私は「ああ、これは発達障害を抱えた人じゃないか」と感じた。
そうすると、この落語のストーリーがまるで違うもののように見えてきたのだ。
父親の厳しい叱責の言葉、母親の擁護の言葉、そして父親の叱責に込められた願い。それらが、発達障害という概念がなかった時代にそれに立ち向かわざるを得なかった親子の必死の姿に見えてきたのだ。
今日的な視点から見ると、父親のとった対応というのは決して褒められたものではないだろう。それでも、そこに込められた願いの真剣さ、真摯さは否定することはできない。そういった思いに胸が詰まった。
そして、最初聞いた時にはくだらない類のものだと感じたオチが、今回は大きな意味を持つものに感じられた。
ほとんど自分の意思を表現する、自分から何かを発信することがなかった若旦那。それが、たとえその内容が一見馬鹿馬鹿しいものであったとしても、自ら大きな声を上げて何事かを他者に向けて発信する。それ自体が些細ではあるが大きな前進であり、小さくはあるが誇るべき勝利であるように思われたのだ。