この世界の片隅に、観てきました。
公開翌日の日曜日のレイトショー。9割5分ほど客席は埋まっていたでしょうか。ただ、なんか近畿は妙に上映館が少ないので、それで集中している、ということもあるかもしれません。
上映終了後、客席からは拍手が巻き起こりました。
まだ頭の中で整理できていませんが、思いつくままにつらつら書いていこうかと思います。
まず画面がきれい。とんでもない安定感というか、実在感というか。
原作のタッチに忠実なキャラが溶け込むにふさわしい、柔らかな印象を受ける背景なんですけれど、徹底した考証のおかげなのでしょうか、スクリーンを隔てた向こう側には間違いなく実在しているに決まっているじゃないか、と思わせてくれます。
そして、実に軽妙で楽しいです。
ダレる所なんか一か所もありません。ユーモアたっぷりに繰り広げられるドタバタは、実に上品な笑いを提供してくれます。
観客であるこちら側も、上品にクスクス笑いなんぞしながら観るともんのすごく楽しいのではないかと思います。そういう意味では、友達と一緒に観に行ってもいいかもしれません。でも上映中にしゃべんないでね。約束だよ!
舞台が昭和ヒト桁から20年代の呉ですのでちょっと古風ではありますが、もうたまんなくなるラブストーリーでもありますから、ひょっとしたら恋人と観に行ってもいいかもしれません。今回ばかりはリア充でも爆発しなくていいです。
本作は、基本、主人公であるすずさんの主観で進んでいく物語だと言えると思います*1。重要な例外を除いて、すずさんがいる場面しか描写されません。
ですから、すずさん以外の人物がどのように喜び、どのように怒り、どのように楽しみ、どのように悲しんでいるのかは、すずさん視点でしか描写されません*2。
にもかかわらず、脇役たちの姿が目に焼きつき、耳にこびりついて離れません。
この作品のストーリーは、主人公であるすずさんの人生のある時期を切り取ったものですが、その周囲にいる人物たちもそれぞれに喜び、それぞれに怒り、それぞれに楽しみ、それぞれに悲しんでいることが、痛切なまでに伝わってきます。
それこそがこの作品最大の魅力である、と感じました。
つまりですね、なんと申しますか。
この作品では偶然にもすずさんが主人公でありますが、本当は誰でもよかったんですよ、多分。
登場人物すべてに、それぞれの人生があり、それが確かな重み、実感をもって感じられる。そういう作品なんです。だから、誰が主人公であっても、同じくらい良い作品になったに違いない、そう確信させてくれます。
原作者のこうの史代さんは、単行本に必ず座右の銘を記載しています。その座右の銘とは以下のようなものです。
「私は常に真の栄誉を隠し持つ人間を書きたいと思っている」(アンドレ・ジッド)
この映画の登場人物で、真の栄誉を隠し持っていない人物は、一人も存在しません。
そう確信させるため、言い換えると、観客である私たちの想像力を掻き立て、その認識に至らせるための徹底した考証であり、丁寧で軽妙な描写や展開であったのでしょう。
この作品には、なんといいますか、便宜上ラストシーンはあるんですが、本当に便宜上、でありまして。
なんで便宜上かというと、我々は見ることができませんけれども、あの愛すべき人々はこれからもそれぞれに喜び、それぞれに怒り、それぞれに楽しみ、それぞれに悲しみ続けるからです。
そして、(なにせ戦争を描いた映画ですから)亡くなってしまった人々も、精いっぱい喜び、怒り、楽しみ、悲しんだのです。
物語はこれからも途切れることなく世代を超えて延々と続き、すでに終わってしまった物語も(なにせ戦争を描いた映画ですから)これ以上ないくらいに愛おしいものであることが、これ以上ないくらい明確に示されます。だから、最後まで席を立ってはダメ!
それぞれの人に、それぞれの人生がある。
言葉にするとこれ以上ないくらい月並みですが、これがこの映画に対する最大の賛辞であることを、現時点での私は信じて疑いません。
ぜひ、多くの人に見に行ってほしい映画です。