万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

「生命の歴史は繰り返すのか?」の感想

「生命の歴史は繰り返すのか? 進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む」(ジョナサン・B・ロソス/化学同人

大変に素晴らしい本だった。
進化の行く末は偶然性が支配するのか、それとも決まっているのか。前者の親玉がスティーブン・J・グールドで、自身の信仰の影響も大きく受けたであろう反対者がサイモン・コンウェイ・モリスである。この両者の論争にある程度の結論を出そうというのが本書だ。用いる武器は実験。言い合ってるばかりじゃなくて実際に調べてみようぜ、というわけだ。
ユーモアをたっぷり交えてわかりやすい文章。紹介される実験も知らないものが多くエキサイティングだ。なにより、ある疑問に対する回答がまた新たな疑問を呼び、それに対する回答がまた新たな疑問を……という全うすぎる展開がまるでミステリ仕立てのように展開されていて、とても楽しい。そしてそれが頂点に達するのが、ミステリ的に言えば、いわば決定的な証拠を見つける10章と、科学哲学がそのなぞ解きを始める11章だ。
趣味でとはいえ進化の本をある程度読んでいると、「新奇な事例」に遭遇することはしょっちゅうだが「新奇な見方」に遭遇することは減ってくる。あー、これ、あの本で〇〇も言っていたあれね、というわけだ。
そんな中、名著「ワンダフル・ライフ」でグールドが本当に指示していたこととはどういうことだったのか、実験を積み重ねたうえで哲学的な解釈を加えることで新たな光を当てて見せてくれた本書は、本当に素晴らしい本だった。「ワンダフル・ライフ」でドキドキワクワクした人はぜひ読むべきだ。

新治さんの「大丸屋騒動」を聞きに出かけたの。

久しぶりに落語を聞きに行った。京都までお出かけ。


ももやま亭 春の陣
新幸…つる
新治…狼講釈
玉之助(太神楽)
新治…大丸屋騒動
中入
新幸(弾き語り)
新治…ちりとてちん


新治さんの「大丸屋騒動」がお目当ての演目。ジャンル分けするならサイコホラー。妖刀に魅入られ徐々に正気を失っていく若旦那の姿を描いている。好きな演目で、音源も持っている。新治さんで生で聞くのは2回目。
初めて聞いたときはただただ圧倒されるのみだったが、今回は序盤でさりげなく張られている伏線に感心した。あとで音源を確認したら、以前は伏線は挿入されていなかった。新たに付け加えられたのだろうか。序盤、若旦那が長兄から妖刀村正を預かるシーンで「見るだけにしておけ。持ち歩くな。まして腰にさしたりなどするな。商人がこんなものを持ち歩くとろくなことにならない」と釘を刺されるのね。だもんで、中盤で妖刀を無邪気に腰に差して出かけるシーンで「ああ、駄目って言われてたのに…」とみている側は思ってしまう。また、伏線のシーンに前後して若旦那が「一途な性格」であることも言及され「だからこその悲劇」であることが暗示される。
また、徐々に正気を失っていく若旦那が町屋の奥に番頭を招き入れようとする場面で恐怖を感じたり。町屋の入り口で若旦那に声をかける番頭はまだこちら側、日常の側にいる。それから数メートルしか離れていないであろう若旦那の世界は既に日常から外れた狂気の世界であり、その世界に入って来いと若旦那が招いているようで。これは心底恐ろしい。
所作の鮮やかさが前は印象に残ったのだが、今回は鮮やかな色彩描写が強く印象に残った。前半の長閑さ漂う平和な京の風景描写から打って変わって、朱に染まる白薩摩、斬られ地面に落ちて燃える提灯、そして目の焦点が定まらない若旦那。さながら映像美に優れたサイコホラーといったところで。
伏線の張り方や、光あふれる町屋の入り口と闇に包まれた奥の部屋の対比、客の脳内に想起される鮮やかな場面の色彩などなど、非常に映画的な演目だなと感じた次第。

「この世界の片隅に」観てきました/「主人公」なんて誰でもよかった/ひとそれぞれですよ

この世界の片隅に、観てきました。
公開翌日の日曜日のレイトショー。9割5分ほど客席は埋まっていたでしょうか。ただ、なんか近畿は妙に上映館が少ないので、それで集中している、ということもあるかもしれません。
上映終了後、客席からは拍手が巻き起こりました。



まだ頭の中で整理できていませんが、思いつくままにつらつら書いていこうかと思います。
まず画面がきれい。とんでもない安定感というか、実在感というか。
原作のタッチに忠実なキャラが溶け込むにふさわしい、柔らかな印象を受ける背景なんですけれど、徹底した考証のおかげなのでしょうか、スクリーンを隔てた向こう側には間違いなく実在しているに決まっているじゃないか、と思わせてくれます。


そして、実に軽妙で楽しいです。
ダレる所なんか一か所もありません。ユーモアたっぷりに繰り広げられるドタバタは、実に上品な笑いを提供してくれます。
観客であるこちら側も、上品にクスクス笑いなんぞしながら観るともんのすごく楽しいのではないかと思います。そういう意味では、友達と一緒に観に行ってもいいかもしれません。でも上映中にしゃべんないでね。約束だよ!
舞台が昭和ヒト桁から20年代の呉ですのでちょっと古風ではありますが、もうたまんなくなるラブストーリーでもありますから、ひょっとしたら恋人と観に行ってもいいかもしれません。今回ばかりはリア充でも爆発しなくていいです。


本作は、基本、主人公であるすずさんの主観で進んでいく物語だと言えると思います*1。重要な例外を除いて、すずさんがいる場面しか描写されません。
ですから、すずさん以外の人物がどのように喜び、どのように怒り、どのように楽しみ、どのように悲しんでいるのかは、すずさん視点でしか描写されません*2
にもかかわらず、脇役たちの姿が目に焼きつき、耳にこびりついて離れません。
この作品のストーリーは、主人公であるすずさんの人生のある時期を切り取ったものですが、その周囲にいる人物たちもそれぞれに喜び、それぞれに怒り、それぞれに楽しみ、それぞれに悲しんでいることが、痛切なまでに伝わってきます。
それこそがこの作品最大の魅力である、と感じました。


つまりですね、なんと申しますか。
この作品では偶然にもすずさんが主人公でありますが、本当は誰でもよかったんですよ、多分。
登場人物すべてに、それぞれの人生があり、それが確かな重み、実感をもって感じられる。そういう作品なんです。だから、誰が主人公であっても、同じくらい良い作品になったに違いない、そう確信させてくれます。


原作者のこうの史代さんは、単行本に必ず座右の銘を記載しています。その座右の銘とは以下のようなものです。
「私は常に真の栄誉を隠し持つ人間を書きたいと思っている」(アンドレ・ジッド)
この映画の登場人物で、真の栄誉を隠し持っていない人物は、一人も存在しません。
そう確信させるため、言い換えると、観客である私たちの想像力を掻き立て、その認識に至らせるための徹底した考証であり、丁寧で軽妙な描写や展開であったのでしょう。


この作品には、なんといいますか、便宜上ラストシーンはあるんですが、本当に便宜上、でありまして。
なんで便宜上かというと、我々は見ることができませんけれども、あの愛すべき人々はこれからもそれぞれに喜び、それぞれに怒り、それぞれに楽しみ、それぞれに悲しみ続けるからです。
そして、(なにせ戦争を描いた映画ですから)亡くなってしまった人々も、精いっぱい喜び、怒り、楽しみ、悲しんだのです。
物語はこれからも途切れることなく世代を超えて延々と続き、すでに終わってしまった物語も(なにせ戦争を描いた映画ですから)これ以上ないくらいに愛おしいものであることが、これ以上ないくらい明確に示されます。だから、最後まで席を立ってはダメ!


それぞれの人に、それぞれの人生がある。
言葉にするとこれ以上ないくらい月並みですが、これがこの映画に対する最大の賛辞であることを、現時点での私は信じて疑いません。
ぜひ、多くの人に見に行ってほしい映画です。


*1:実は誰の主観で物語が進んでいるのか、というのは本作の中核をなすポイントだと思うのですが、ネタバレしたくないのでここではこれ以上書き連ねるのはやめておきます。

*2:ふたつ、大きな例外があります。その例外こそがこの作品の中核だと考えますが、ネタバレしたくないので(略)。

露の新治「たちぎれ」/言葉と仕草と嗅覚

2016年10月30日日曜日。丹波橋の呉竹文化センターへ「ももやま亭 復活祭! 秋の陣」を聞きに出かけた。
f:id:banraidou:20161030133704j:plain
お目当ては露の新治さん、というか、いただいた案内メールに、今年は秋の独演会を休み、この会を独演会と位置付けて取り組むとの意気込みが書いてあった。これは期待しないわけにはいかない。
演目は以下のとおり。

新幸……鉄砲勇助
新治……千早ふる
豊来家板里(太神楽)
新治……源平
中入
席亭ご挨拶
新幸(ギター漫談)
新治……たちぎれ


果たして、たちぎれは素晴らしい出来であり、素晴らしい体験だった。
新治さんの高座は上品で華があると思うが、抑制のきいた様子で登場人物の感情を表現していく。
今まで生で接することに恵まれた「たちぎれ」では、ヒロインである小糸ちゃんの在りしの姿が非常に生き生きとした眩しさをもって表現され、それによって悲劇的な事態が増幅される桂文之助さんのそれや、「もうとりかえしがつかない」というどうしようもなく絶望的な事態の深刻さにスポットをあてた濃密な桂よね吉さんのそれが深く印象に残っているのだけれど、新治さんのは(当たり前だが)そのどちらとも異なる。それぞれの登場人物が相手を気遣い自制を効かせ、それでもつい漏れ出てきてしまう感情にこちらは心を打たれる。
そしてそれが最高潮に達したのが、仏壇に線香をあげ、手を合わせると仏壇に供えてあった三味線がひとりでに鳴り出す、あの名シーンだ。
それを聞いた様々な人物が、所作で表現される。下を向く、手を合わせる、思わず涙をぬぐう……登場人物の誰もが言葉を失い、一言も発することができない。沈黙の中で話が進み、その沈黙がこれ以上ないくらい雄弁にその場にいるものの哀しみを表現する。
(ああ、もうこれ以上余計な言葉は要らない)と、そう思っている時に、ふと気がついたのだ。
会場に、いい香りが漂っている。
線香の香りである。
余計な言葉はもう要らないと、所作で表現される感情を味わっている最中に、嗅覚を刺激されたのである。もう、完全に不意打ちだった。
この演目は「たちぎれ線香」である。この場面ではきっと線香の香りが立ち込めていたに違いない。そりゃそうだ。
でも、実際に嗅いでみるまで、そんなことは意識に昇らなかった。
これ以上何を足しても邪魔になってしまうような最高潮の場面で、邪魔にならない上品さで思いもよらないものを足してみせた。その演出に、ものすごく感動して、帰途についたのだった。

桂千朝「ながたん息子(菜刀息子)」を聞いて感じた事/発達障害と向き合うということ

2016年10月29日土曜日。テイジンホールへ「桂千朝独演会」を聞きに行く。
テイジンホールは初めて。昭和モダンな感じがして、雰囲気が良い。ただ、トイレがちょっと狭い。
f:id:banraidou:20161029165754j:plain
f:id:banraidou:20161029134249j:plain
演目は以下のとおり

吉の丞……犬の目
佐ん吉……いらち俥
千朝……地獄八景亡者戯
中入
千朝……ながたん息子


ながたん息子が圧巻だった。ながたんは「菜刀」と書き、菜切り包丁のこと。「弱法師(よろほし)」の異題もあり、桂吉朝師が死の直前に壮絶な高座を披露した演目としても知られるが、私はその高座を聞いたことがない。以前に桂小南師の録音を聞いたことがあるのみで、生で聞くのはもちろん初めてだった。
「百年目」が現代的な視点でもマネジメントに関する落語として評価できるのと同様に、「ながたん息子」も現代的な視点で評価できるのではないかと感じた。発達障害に関する落語として捉えることができると思うのだ。
お店の旦那が引っ込み思案な若旦那を叱責する場面から始まるのだが、この若旦那の引っ込み思案の度が過ぎているのである。でも、こういう人はいる。いるのだ。
自分の意思を表出することができない。それどころか、はっきりとした意思があるのかどうかすら、傍から見るとよくわからない。以前録音で聞いた時には、ただ単に落語らしく誇張された人物として私はそれを捉えた。しかしこの日、千朝さんがきっと目を伏せ、旦那さんからの問いかけに返答するのも容易ではないさまを見て、私は「ああ、これは発達障害を抱えた人じゃないか」と感じた。
そうすると、この落語のストーリーがまるで違うもののように見えてきたのだ。
父親の厳しい叱責の言葉、母親の擁護の言葉、そして父親の叱責に込められた願い。それらが、発達障害という概念がなかった時代にそれに立ち向かわざるを得なかった親子の必死の姿に見えてきたのだ。
今日的な視点から見ると、父親のとった対応というのは決して褒められたものではないだろう。それでも、そこに込められた願いの真剣さ、真摯さは否定することはできない。そういった思いに胸が詰まった。
そして、最初聞いた時にはくだらない類のものだと感じたオチが、今回は大きな意味を持つものに感じられた。
ほとんど自分の意思を表現する、自分から何かを発信することがなかった若旦那。それが、たとえその内容が一見馬鹿馬鹿しいものであったとしても、自ら大きな声を上げて何事かを他者に向けて発信する。それ自体が些細ではあるが大きな前進であり、小さくはあるが誇るべき勝利であるように思われたのだ。

「聲の形」/西宮硝子のハードな日常について

また「映画 聲の形」の話です。
ネタバレを含みますので、まだ映画をご覧になっていない方は気を付けてください。映画オリジナルの要素にも触れますので。というかあの要素が映画オリジナルって、脚本と監督はドSに違いありませんよ。

続きを読む