万来堂日記3rd(仮)

万来堂日記2nd( http://d.hatena.ne.jp/banraidou/ )の管理人が、せっかく招待されたのだからとなんとなく移行したブログ。

「本泥棒」は「スローターハウス5」と比べ物にならないだろうと思う。しかしながら……

「本泥棒」読了。
まず、本が好きな人が読みたくなくなる2点を挙げよう。

アメリカで脅威のロングセラーとなっているらしいこと。

・映画化権が二十世紀フォックスに売れていること。


次に、私が読みたいな、と思った3点を挙げる。

ナチス政権下で、本を盗む女の子の話であること。

・語り手が、なんと「死神」であるということ。

・書評にて、あの文豪カート・ヴォネガットが、その生涯でやっと一冊生み出すことが出来た傑作「スローターハウス5」が引き合いに出されていること。




さあ、いかがだろうか。
読みたくなりましたか? まだそうでもないですか?




ナチス政権下で本を盗む女の子の話。
このキーワードからは、悲しい、陰気な話を想像させられる。ましてや、死に神が出てくるだって?
ところがところが、とても楽しく読める本なのだ。
それは、著者のズーサックが児童書出身であることと無関係ではないだろう。本書の楽しさというのは、子供たちの姿が生き生きと描かれていることに他ならない。
登場人物たちが生き生きとしていなければ、子供たちはその本に見向きもしないだろうから。
厳しい世の中であっても、子供たちは毎日を楽しく、懸命に生きている。
そして、その子供たちには(たとえその時に気がつくことが出来なくても)溢れんばかりの愛情が注がれている。
主人公のリーゼル・“本泥棒”・メミンガーが、如何に平凡な日常にきらめきを見出したか。
如何に日常に冒険を見出したか。
如何に友情や愛情に囲まれ、またそれに応えていたか。
その姿は読む者の胸を憧れで熱くさせ
そして、とても苦しくするに違いない。


なぜこの本があなたの胸を苦しくするのか?
それは、死に神が語る物語、しかもナチス政権下での物語が幸福なものであるわけが無いからである。
実際、語り手である死神は、この物語が幸福な結末を迎えないということを、しつこいばかりに示唆してくる。それは冒頭でも語られるし、作品中でも何度も何度も言及される。おまけに、読者である私たちには作品中では言及されない予備知識まである。
この愛すべき人たちが幸福になる以上のことを、読者の私たちは望んでいないのに、通奏低音のように不幸な死が作品内を吹き荒れる。
なんということだ。
この愛すべき人たちは、自分たちが報われないということを決して知ることが無いのだ。


ヴォネガットならここで「そういうものだ」といっただろう。それは、ヴォネガットが、私には想像も出来ないような苦しみの果てにやっと呟くことが出来た一言であったに違いない。
それはヴォネガットドレスデンの無差別爆撃の当事者であることと関係しているだろう。


ドレスデン爆撃−Wikipedia


ヴォネガットは捕虜として、この爆撃を経験し、生き残った。
スローターハウス5」の、あの計算されているとはいいがたいような印象を受ける八方破れの構成は、彼があくまで当事者としてドレスデンの爆撃を語ろうとしたのだと考えると理解しやすい。
つまり、なんというか、ああするしかなかったのだ。
彼は、戦争に関する長編をこれひとつしか書くことができなかった。そしてその本は、とても価値があるものとなった。


一方「本泥棒」の作者マークース・ズーサックは1975年生まれ。しかもオーストラリア人。
戦争を体験しているとは言いがたい。
彼には「そういうものだ」に匹敵するような一言を創造する事など、とても出来ないに違いない。彼はどこまでいっても当事者にはなりえないのだ。
戦争の当事者ではない私たちが戦争について何かを語ろうと思った時、どうするべきだろうか。
様々なアプローチがあると思う。
ズーサックの場合、戦争について色々と調べ、見聞きした上で、想像力をあらん限りにフル稼働させた。


古い話になるが、世間で「最終兵器彼女」が流行っていた頃。
当初から「セカイ系」という、わかりやすい軸があったわけじゃない。各人がそれぞれの切り口で「最終兵器彼女」という作品を捉えていた頃だ。知人と話していた時に持ち上がってきた見方なんだが。
この「最終兵器彼女」は、私たちの世代(ちなみに私と知人、ふたりとも1975年生まれ。奇しくもズーサックと同い年だ)というのは、戦争を卑近な日常の形でしか認識できないということを示しているのではないか、なんて話になったことがある。


しかしながらそれは早計であった。
私たちは「そういうものだ」に匹敵するような言葉は書くことが出来ないに違いない。
それでもズーサックがやってのけたように、想像力の翼を羽ばたかせることで、それを受け継ぐことは出来るのだ。
当事者の声を受け継ぐのは、当事者ではないものがやるしかないのである。
当たり前のことかもしれないが、それでもそれはやる価値のある仕事だ。
その仕事の結実が「本泥棒」に他ならない。


願わくば、冬の冷たい雨みたいに哀しく、夏の朝の青空みたいに羨ましいこの物語が、一人でも多くの人に読まれますように。